行方知らずとなった恋人を探しているうち、得体の知れぬ沼のほとりに迷い着いていた。目印にしていた幹が、ふとどこかに消えている。気がつけばさっき避けた筈の蔦が、眉の上にぶらり。道かと思えば草叢で、開けたかと思えば樹々に阻まれる、そんなところだ。
ようやく視界が定まったかと思えば、卵白のように揺蕩う沼の波がそばにあった。木立の空気は澄んでいたが、沼には霞が溶けているらしい。水の濁りが気化して辺りは白々しく鎖されてしまった。「……」名前を呼ばれた気がした。霞に埋もれて男の横顔があった。皺が目立つが、年より老けて見えるのだろう、細目の男だった。「……」ざわめきに消されて聴こえる声は、対岸から届いているようで、か細い。もしや蜃気楼。
「水蒸気、野草が散らす草の汁だという人もいる。火炙りの煤だとも。どう思います」
耳の近くで声が突然、明瞭になる。
「何の話ですか」
「この霞ですよ。目も開けちゃいられない」
横顔がこちらを向いた。善良な表情だ。
「呼びかけて差し上げないのですか。会いに来たのでしょう」
続けて沼の方へと男が呼びかけた名前は馴染みのない女の名前だった。
「影だという人もいれば、色だという人もいる。魂、俤、夢幻……」
「何の話ですか」
「彼女ですよ。貴方は貴方の、待ち人が映っているのではありませんか。ほら、そこに」
見回しても濃淡のついた霞が漂うばかりで、女の姿などどこにもない。
「二年前に胸を患って亡くなりましてね。以来、ずっとこうして。泡沫を掴むようで莫迦にされますが、なんでもいいんです。たとえ影や幻だって、彼女であることに変わりありませんから」
感化されてしまって霞が水墨の態をなし、懇意の女を描いた気がした。確証のないうちにまた霞は霞に戻った。
「本当は沼に棲む龍の呼気らしいですよ。だから時折、酒の臭いがする。水を酒にする化学を彼の胃袋はもっているのです。けれど頼もしいですから、彼女のことも安心して任せられる」
死んだ女のいる湖沼……彼岸ということか。ならば恋人を探すのも野暮だろう。彼女はまだ生きている、はずだ。万一死んでいるとすれば、いま、ここで霞に映り込んで……。
酒を呷り弾みで暴力をふるったせいで、彼女とは疎遠になった。ふた月も前のことを思い返しながら、無色の霞のなかで動けずにいた。男の声は途絶えた。横顔も消えた。
霞の向こうから嘆くように吼えるように、水の音が響いてくる。
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