手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『潮の匂い』

[解題]
bk1怪談大賞への書き下ろし。でもなきゃこんなの書かないよ。なんて言うくらいの凡作も凡作だから、何故にこれが怪奇の章のオチなのか疑問だろう。つまり、あれである。怪奇を蒐集する舞台にどストレートに挑んだ作品であるわけだから、それなりの落とし前をつけなければならないのだ。
それはさておき、飛鳥部勝則作品の影響で、“幽霊は匂いである。”理論がすっかり定着してしまった。本作もまた、その犠牲となっている。
横浜行きてえなあ、心のベストプレイス。



「ママ、これ」
 娘がある日、押入れの奥から引っ張り出してきたアルバムは、見覚えのある黄色い花柄の表紙で、所々染みで汚れていた。ナイロンのシートで覆われているのにも関わらず――だからだろうか、手に取るとべたべたして非常に心地が悪い。開いてみると、何てことはない昔の写真が綴じてあった。十年以上前のものだ。夫とまだ付き合った間近の頃。わたしは今より少し痩せている。こんな頃もあったのねと微笑ましく思っていると、娘がその中の一枚を指差した。横浜の海岸公園で撮ったもの。写っているのは、仲睦まじく腕を組む二人と、数羽のかもめ。背景に広がる湾景はどこか白く霞んでいる。条件反射か、鼻の奥で潮の匂いを感じた。ふと、写真の右端に肌色の何かが見切れていることに気がついた。肌色の半円。近づいて見るとそれは人の横顔だった。目尻から鼻先にかけて、覗き込むように写っている。通行人が見切れたにしては、場所がおかしい。肩や腕が写りこんでも良さそうなのに様子もない。ただ枠外から顔面だけ突き出している。幾許の戦慄を覚え、わたしの停止した思考を鳴り響く電話のベルが切り裂いた。
「いま、駐車場にいる」
 夫だった。
「花は買ってきたぞ」
 開いたアルバムの写真を、隣に立つ娘も覗き込んでいる。わたしはそっと娘の頭に手を触れた。小さく丸い後頭部。
「横浜に着いたら昼食をとろう」
 夫の声。わたしの右手が撫でる娘の髪は湿っていた。水気と仄かな潮の匂い。冷たくべたべたしていて非常に心地が悪い。見紛うはずがない。写真の顔は……。
「娘の一周忌ぐらい出て来いよ」
「その必要はないと思う。お願い、今すぐ帰ってきて」
 わたしが夫に答えると、隣でくくっと娘が笑った。
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