蝶の翅の迷宮を彷徨い歩くのは、もう、厭きた。
僕自身の腕をひらひらと動かして、羽ばたくと、指先から光の雫が零れ落ちて、溝といい紋様という、迷宮の壁を、次から次へと原色に染めていく。其れらの色は、瑪瑙や瑠璃のように鉱物的な色合いとは違っていて、むしろ毒虫のような、吸血花のような、忌避たる警戒色の方により近い。アア、そういえば此処は蝶の翅の上だったなと思い出す。
この蝶が何処から飛んできたのかは定かではない。或る夏の日に、それは生暖かな風に乗って、僕の四畳半の部屋の窓を叩いた。死に急ぐように強く飴色の体をぶち当てるものだから、次第に心配になって窓を開けて、部屋の中に入れてあげた。蝶は、天井をゆるりと泳いで、真珠色の鱗粉を畳の上に振り撒いた。よもやそれが僕と蝶の、今となっては他に変えがたい友情の始まりであり、胡蝶の夢とはよく言ったものの、この果てなき夢の通い路へ踏み込むことになろうとは如何に想像できただろう。
迷宮は一本道。進んで数歩のところでよく曲がる。天井は空の色。足元には産毛だろうか、細い穂先が敷き詰められていて、膝ほどの高さまで伸びているから、足がとられて素直に歩くことも出来ない。仕方なく僕はこうして宙に浮かんだまま進んでいる。壁面の階調は僕の腕が空をかくごとに、赤から青へ、緑から黄色へ、化学反応しているかのように、その様相は変わっていく。僕は蝶とは話せない。蝶は僕を翅の一部に取り込んで一体どうしようというのだろう。確かめようがない。産毛の床が蠕動する。その毛先を白銀の粉がみっしり覆っている。それは光の加減で時に淡桃色にも色にも見えた。あれが僕を誘った鱗粉なのか。
天井に星の仄めきが拡がる頃、産毛の床は動きを止めた。僕が泳げるほど、中空に程よく流れていた空気もぴたりと止まった。僕の体が産毛の床に落ちていく。 産毛たちが僕を絡めとり、吸い込まれていく。白銀だった産毛が次第に紅に染まっていく。波打つ壁面の階調が、臓物のように気色悪い彩りに変わっていく。吐き気を催す。瞬間的な七色の波が辺りを迸る。思考を途絶えさせる吐き気ごと、僕は、蝶の翅の迷宮に融けこんでいく。
蝶の眼を通して、外界が見えた。窓硝子越しに同級生の姿が見えた。……ちゃん。彼女の名前を呼んだけれど、届くわけもない。彼女が窓を開ける。期待と興奮で、僕は羽ばたく。蝶がひらひらと室内に入り、その翅に今、僕はいます。
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