雲が渦を巻く都市の空へと、何かしら怒りを湛えてビル風が詰め寄っていく狭間、ダクトの剥き出しになった屋上の廃バルコニーで、大きなヘッドフォンをした少年が口笛を吹いている。
ボーカルはない。ただ流麗な、小川のせせらぎを髣髴とさせるメロディに、時折、挿入されるトランペットと馬の嘶き。子どもの笑い声とシンセサイザーの和音。それら音楽に力を貸すは、ヘッドフォンの外側から漏れてくる風の調べだった。頭上に銀色の物体が見えた。北上する飛行船であり、これから隣国へ墜落するであろう重火器貨物機だ。爆薬とも、爆弾とも呼ばない。教科書に載っているのはレーザー銃、メーザー銃がほとんどで、火薬の火の字もないが重火器ということになっている。飛行船に搭載されているのも、それ。だからむやみに他国を火の海にするはずがない、と教師は言う。
街の風が強まったのは、地下シェルターの排気が地表から上空に向けて放出しているかららしい。シェルターを持っているという噂が流れた級友たちに、決まって持たざる生徒は口々に言う。「へぇ、お金持ちなんだねぇ」
無論、少年は持たざる者だ。父母はずっと前に離婚し母親に引き取られたが、パチンコにのめり込んでいた母親が、車中に置き去りにした妹を死なせてしまって以後、彼ひとり施設に預けられた。親戚の顔も知らない。施設に頼んで戸籍を取ったが、彼は母親が高校時代に自宅で生みそのまま死んだ子として扱われているようだった。金をせびりに来る父親によく言われる。どうして戸籍に名のないお前が学校に通えるのか、と。
祖父母が少年を子として申請していたからだ。戸籍上、母親は姉だった。向かいの介護施設にともに認知症を患ったふたりが住んでいるが会いに行ったことはない。
鼻歌が止む。ヘッドフォンの外側から音が響いた。髪を逆巻き、目もつぶらすほどの強風が吹いたのだ。飛行船が産み落とした風だろうか、隣国を潰した風だろうか。
赤錆のささくれ立った鉄柵からビルの狭間に目を落とす。高層でもないが落ちたら命はない、それぐらい少年には分かっていた。今朝、施設で仲のよかった子が首を吊って死んだ。施設暮らしの人間だから、苛められるのだ。
ヘッドフォンの音楽が途絶える。代わりに風が紛れ込む。なにか囁かれて、少年は肯くと身を乗り出した。空と地上とを見比べたのち、彼の手は解かれた。
数秒後、地上には毀れたヘッドフォンが落ちている。
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