火のない処に煙は立たねえよなぁ。
貝煙草を啄ばみ、しかめっ面で、喫煙所の小窓を睨みつけながら上司が舌打ちした。付き合いだと割り切り、私も赤螺――アカニシに火をつける。
「そんな安物吸ってんのか」
上司が吸っているのは南洋産だが紛れもない栄螺――サザエ、赤螺はその代用品として流通しているものである。
「禁煙しようかと思ってましてね。少しずつ」
安価な赤螺の殻口は燻り、煙もよく上らなかった。
「いっそのこと竜宮毛彫でも吸ったらどうだ」
竜宮毛彫はまずくて有名な貝煙草だ。目にしたこともない。
「呆けに効くぞ」
「単なる噂じゃないですか」
寿童枕に嫁が笠、天狗に甲香、猩々蟋蟀……思いつくままに銘柄を唱える上司の目は虚空を向いていた。栄螺の殻口から立ち上る白煙が吸煙機の網目に消えていく。
だが半開している小窓の向こうにも棚引く煙があった。外で喫している者でも居るのかと思えば、人影どころか種火も見当たらない。さまよう煙――浪煙だとすぐに判った。初夏になると何処から現れる不明の煙である。こぶし大のものもあれば、人の背丈をゆうに越えるものもある。開けた窓から乗り出してみれば五つほどの浪煙が右往左往していた。
「ほんと目障りな野郎らだ。消えろこのっ」
上司が唾を吐くと巫山戯けるように浪煙の群れは風にそよいだ。縦に解れ、縺れ、旋風を描く。上司の右手から流れる貝煙草の煙を巻き込み、踊った。
「莫迦にされてますよ」
「こいつら、今日は威勢がいいな」
栄螺を吸煙機の磨砕嚢で揉み消し、上司は首を振って骨を鳴らした。随分と気が立っている。窓外の煙は相変わらずこちらを囃し立てているようだ。
「俺はこいつらを生き物だと思っちゃあいねえが、見当はつく。成仏も出来ねえ腐れ魂だ」
煙幽霊説は時代後れの言説だが、はっきりと否定されたわけではない。信憑性が高いといえば高いので、一般の理解では概ねそれが定説だ。今にも煙に飛びかからんとする上司を抑えようかどうか逡巡していると、程なく煙の群れは霧消した。気にくわねえと依然として上司が声を荒げているから、何かあったのかと訊ねた。すると彼は苦々しそうに明かしてくれた。
「ウチのがな、俺が不倫してると思い込んでんだ」
「なんでまた」
知るか、と嘯く上司が、幾度か同課の若手と密会を交わしている処を目撃した身からすれば、夫人の思い込みだって、浪煙の群れのようだとは一寸ばかし云い難いものである。
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