手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『蠅とサイダー』

[解題]
本当なら蠅の王様をどどーんと登場させたいところだったが、その片鱗を変哲のない一匹の蠅に視るという趣向を選んだ。ただし少々勝手が違うのは、作品自体がベルゼブブ誕生の叙事詩になっていること、とでも言おうか。
地獄への言及は少し蛇足な感じが否めない。物語を期待せず想像力の海に浸かっていただければ蠅の歌も聞こえてくるかと思う。



 彼にとってそれは蒼きコキュートスであり深海の奈落だったのであろう。古代からの酸性の海だ。500mlの容積に満ちるサイダー。炭酸の泡が絶えず浮上しては気化していく瓶の縁に今、一匹の蠅が止まった。
 気化した炭酸で顔を洗うように、瓶の縁に腰掛けながら忙しなく前肢を擦っている。
 硝子の塔に降臨した悪魔は夏の終わりを背に乗せてきた。今年の夏もよく生きたと翅音を響かせていたのは、最期の唄だったのだろう。
 夏に君の居場所はない。現れなくてもいいのだ。君は蝉には勝てないよ。
 空気が漏れただけのその声に蠅は背筋を震わせて動きを止めた。刻む時間を失った蠅は瓶の縁から離れ、細い瓶口に翅を掠めながら奈落に落ちる。吸い込まれるように酸性の海に着地する。
 細かい泡が黒い体を包み、蠅は引きずり込まれていく。炭酸が産毛の生えた黒い毛皮を突き刺し解体していく。睫毛程の蠅の足は散らばり炭酸に溶けていく。複眼はそのひとつひとつのレンズを貫かれ透明なコキュートスの氷に融和していく。夏の間、散々灰色の蜜を舐めてきたブラシ状の口も根こそぎ分解されて、白い帯にしか見えない微小の粒子となって界面に上っていく。元から透き通っていたにも関わらず、汚れてくすんでしまった四枚の翅は半壊し網目のとおりに引き裂かれ四散した後にやはり溶けた。
 サイダーは希釈することも汚染されることもなく透き通る終末の雨と海として瓶の中に在り続ける。
 蠅は気化してしまったのだろうか。不可視の気体となって再び宙に戻ったのだろうか。翅音は聞こえない。炭酸の小さな破裂音が瓶の中からは聞こえてくる。
 蠅が歌っているのだ。
 原始の海で、高らかに。
 瓶に手を伸ばすと水滴が後には残った。全てを溶かし閉じ込めて、気泡に取り込み発散していくサイダーという原始の海。蒼い奈落。酸性のコキュートス。
 先程まで蠅が座っていた瓶の口に唇をつけて、魔法の水を飲み干してしまおう。冷たい刺激が喉を刺し、食道を棘がなぞっていく。
 蠅のように取り込まれてみたかった。夏の雫を封じ込めたサイダーの一部に。
 だけれど僕は知っている。
 サイダーは溶けていく。真なる原始の海。紅い奈落。放ったガスさえ封じ込める、胃液という名の酸性のインフェルノに。蠅と同化する。蕩け、交わり、融合する。蠅の体毛と僕の柔毛。蠅の体液と僕の胃液。僕の喉と蠅の唇。唾飲。
 そして僕の腹の中で夏は終わりを告げ僕は歌う。
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