悲しみよりも、働かなきゃなという気持ちが先に起きた。祖母の時だってそうだ。祖母の私物はまだ家を占領している。片付けをしなければいけないのは承知で、どうでもいいものまで揃っている。すてる時期を見失ったのだ。そのうえ、幼なじみのシャニとの思い出まで整理をしなければならないなんて。横転するほど肩の荷物が重い。
「だいぶはっきりしてきたんだ。この近さだったらツブツブまで分かるよ」
シャニは自分の鼻先を横切る半透明なものを見つめて言った。
土星の輪っか症候群、とそれは呼ばれる。あるときから人の頭のまわりに土星の輪がぼんやりと現れ、次第に輪郭がはっきりとしてくる。輪の出た者はやがて本物の土星の輪になるそうだ。
「後光にしてはぶさいくだよ。なにより視界に入るのがなぁ、気になるなぁ」
シャニは見間違いのような輪をつまもうとするけれど、もちろん指先は空をかく。はっきりしてきたら感触が生じるのかどうかは分からない。祖母の時、輪が伝染するとかで触るのを禁止された。
「これ、返すよ。というよりもらってほしい」
シャニがポケットから取り出したのは誕生日にあげた銀の腕輪だった。
「父さんや母さんに勝手にすてられると困るから」
「誰も分かってくれないの。日記帳とか手編みの帽子とか、この世にふたつきりないのに、忘れるのも大切だとかなんとかいってすてようとするの」
祖母の私物をめぐって親子喧嘩をした日、彼に相談したことをわたしは思い出した。
「大切なものだ、とっとくのは当然なことだと思うけどなぁ」
確かに彼はそう言ってくれた。
その気持ちは変わってないか、と訊いた。抽象的な質問だったからだろう、シャニは眉をよせて唇をとがらせた。腕輪をわたしの手から取り上げると、鼻先で眺めて、頷いてみせた。
「たしかにゴミさ。なんの役にも立たない。思い出は残るけど、物がなきゃ残らない思い出もないんじゃないかな」
シャニは涙がこみ上げてきたわたしの頭を撫でながら、もう片方の手で自分の鼻先を指さした。
「でもね、この輪も宇宙のゴミでできてる。遠くに見るからこそ綺麗に見えるものもあると思うよ」
シャニが土星の輪になったのは二日後のことだった。
広くなった部屋に寂しさを感じたら、わたしは夜の窓を開くことにしている。深々とした青い宇宙のまんなかに土星がいるのだ。煌々として、夜を切り裂く鎌のような輪に、みんないるのだ。風と夜景が清々しかった。
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