青に沈んだ暗室。硝子越しに水の呼吸が聞こえる。細かい泡が水槽の底から上り、天井に消えて行く。
水中照明がその軌跡を照らし、さながら銀色の鎖のように天へと伸びて行く。光と闇が混在する空間。青の揺らぎと白の揺蕩いの交わり。水槽で隔たれ、水棲生物と人間が共存していた世界。……現役の頃は。
海沿いに建てられた近代水族館。
当時もここは静かだった。あの人と一緒に観た時も。
あれから一年。
あの人とは結ばれなかった。でも交わした約束を忘れたことはない。一年後もこの水槽の前で会おうと。
その約束は果たされず、この水族館も……近い内になくなってしまう。その前に約束を……足音が聞こえる。入場口からゆったりとした足取りで近付いてくる。
「先輩、やばいですよ。勝手に入っちゃ」
「好きだった子がいてさ。付き合って一か月だった。休みの折合いがつかなくて……一度もデートらしいデートが出来なかった。だから、その日は必ず会おうと 思って……彼女、オバケヤシキが苦手だって言ってた。じゃあ、怖くないオバケヤシキを観せてあげるよと言ったんだ。そして、ここで待ち合わせをした」
水族館の従業員二人が、からの水槽の前に立つ。
「オバケヤシキは、幽霊を見に行く場所じゃない。幽霊に見られに行く場所なんだ。彼らはじっと見てる。水族館も同じ。僕らが見てるんじゃない。彼らが見てるんだ」
彼は水槽に手を当てた。彼の掌。私の頭をよく撫でてくれた掌。
私は彼の前まで泳ぎ、彼の掌に手を重ねた。
「僕は約束したんだ。二か月前死んだ彼女と、ここで」
途端、彼の背後にいた男が何かに気付き目を見開いた。
「先輩……水槽の中に……」
彼が顔を上げる。私と目が合った。彼は微笑む。
「ずっと謝ろうと……。君が事故に遭ったことを知ったのは、ずっと後だった。ちょうど浸水が見つかって、その対応で首が回らなかったんだ……」
青い硝子に彼は語りかける。その時、異変は起きた。低く響く破壊の音。水槽が震えた。水の流れが変わる。
「先輩、浸水だっ」床下から水が溢れてくる。
「先輩っ」
「僕はここに残る。彼女と、水族館と、一緒に……」
地盤沈下だ。浸水が確認されて、すぐにここは閉鎖になった。
後輩は見た。
水槽に唇をつけた男と、水に同化するほど青白い女性型の幻影(ウィスプ)が硝子越しに口吻を交わすのを。
そして彼女の背後に浮かぶ、老若男女、数え切れないほどのウィスプの影を。
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