三年ほど前のことだ。
実家の物置――といっても、屋外のではなく階段と一階の隙間に設けられた収納スペースのことである――を整理していたら、高校一年のとき、朝会の最中に爆竹を同級生の足元へばらまいた挙句、一週間停学を食らい、高校やら火傷した生徒やらへの陳謝参りへ出かけた帰りに立ち寄った書店にて、母親から買い与えられた日記帳が出てきた。高校生が持つには随分老けた装丁で、合成革の表紙は当時から使い古しの革靴のようにくすんでいた。久しぶりに手に取ってみると、当時の情景やら感傷やらがどかっと頭上に降ってきて、もしやこの現実は当時の自分が悲嘆にくれてみた夢の一部なのではないかと不安が過ぎった。
ひとつ深呼吸して表紙を開くと、高校時分の拙い文字で二三行、課題の進捗具合――一日一枚作文を書くように課せられたのだ――やら、映画の感想が細切れに書き連ねてある。母親への愚痴も書き添えてあった。やれ朝はいつもどおり七時起床だの風呂掃除と皿洗いはお前がやれだの、ちょっと重責過ぎないかとくそ真面目に書いてあるので、噴き出す反面、愚か者めがと昔に毒づきたくなったものである。
決してまめとは言えない性格ながら、よく日記だけは続いているものだと感心もした。頁を捲るごとに万年筆で記したぼうふらのような文字が、一端に大人びていくのを見ると、父親然とした気持ちにもなって微笑ましく思ってくる。
一箇所折り目つきの頁に触れ、若気の失せた文章に目が留まった。
八月十三日
四十四の誕生日を迎える。四十四。不吉な並びだ。
四十四になったということは、来週にも母親の三回忌が来るという表れでもある。
そろそろ日程を思慮する必要が。
それはあまりにも素っ気ない記録であった。
けれども、幾つか奇妙な点があった。まずこの日記帳は十年用である。十五から書き始めて四十四まで一冊に纏まるはずはない。それから、確かに私は今日に至るまで日記を絶やさずに来ているが、このような文を記した覚えはないのだ。幾千もの記録を綴ってきたが、ましてや誕生日に書いたものを一切忘れてしまうはずがない。
何より四十四の誕生日といえば、ちょうど二十年後にあたる。四十一の八月二十日頃――。思い直してはいけない気がして、日記帳は閉じた。
誰かの悪戯だと思っているのだが、誰かが思い当たらないので母親には黙っている。
けれども、言うべきか迷っていたりもする。
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