前作『アンチクライスト』が、タルコフスキーの『ストーカー』を引用した映画だったかと思えば、そのままタルコフスキーの“ストーカー”と化しやがったか、フォントリアー!
冒頭から『惑星ソラリス』のあれが出てきたときは、自分の記憶を疑ってしまいましたね。あれ、これってMAD映像か何かですか、と。
タルコフスキーをちょっとかじっただけの観客、つまり俺みたいな輩には『ノスタルジア』と『惑星ソラリス』を足して有名女優のヌードで盛り付けました、という説明がよく似合う。そんな作品。
前作『アンチクライスト』でもかましてくれた、シャルロット・ゲンズブールの病的演技には少し食傷気味でしたね。準主役ですね。
キャストは意外に豪華で、『アンチクライスト』とは別の意味で(正規的な意味で)の大作になっています。
とはいえ、キルスティン・ダンストのヌード目的で行くと、まあ、『恋の罪』の水野美紀と比べたら、まあ、見ごたえはあるようなもんですが、何しろ老け顔に疲弊を加えて、なんとも崇高な青白い光の下にさらされるという場面なので、興奮とかありませんから。
で、日本ではロードショーすらまだされてない(来年2月らしい)ので詳細な感想はひとまず飲み込んでおき、ちょっと私的な理由で語るべきことがありまして、こちらも詳細は語れないものの、覚書という体でつらつらと載せておきます。
俺自身のメモ。
さて、プライベートの事由もさることながら、今、一本のSF小説を書こうとしている。
それは藤子・F・不二雄の短編漫画『サンプルAとB』にインスパイアされたものなのだが、思いついたのは昨夏、急性扁桃炎でぶっ倒れていた最中だったわけで、満を持してという気持ちが強い。
ところが、それから色々な情報収集を重ねるうちに、SF小説としての弱み(主に説得力と整合性)が存在することが判明した。
ここで考えたのは、果たしてリアルに近づけるか、フィクションに遠ざけるか、作品のカラーをどこに置くかという点にある。
俺はハードSF者ではない。むしろ幻想SFというグレーなゾーンに身を投じたい。
ところが、今回の題材は“幻想に逃げない”というテーマが髄にある。
あくまでリアルを映し出すことが、作品を成立させるのだ。
ここでいうリアルとは、SFとしての出来、科学的根拠や洞察の類ではない。
今、俺がこうやって生活している現代での暮らし、実際の“現実”である。
それを語るうえで今俺が置かれている状況を語る必要があるのだけど、とりあえずそれはかなりプライベートな話なので保留にしておく。
さて、そんな立ち位置の決まらない作品に思い巡らしている最中、『メランコリア』に出会った。
正直に言おう。今、俺がくだんの作品を上梓すればほぼ間違いなく『メランコリア』からインスパイアされていると説明するだろう。
無論、『メランコリア』がどういう話なのかは、今般、本編を見て知った。
『メランコリア』が俺の頭のなかにあるストーリーに影響を及ぼす可能性はゼロに等しい。
だが、実際に、それに近しいことが起きている。
だが幸いなことに、『メランコリア』と
くだんの作品(便宜上『R』と呼ぶことにする)の本質はかなり近いところにあるものの、アウトプットの仕方は正反対である。
《世界の終末》に対する姿勢、ならぬ《失われる現実》への姿勢が異なる。
だのに、今ここでこのことについて語ろうと思った所以は、
運命や宿命、めぐり合わせに対する呆れの吐露である。
『R』においては、《世界の終末》に対するひとつのスタンスとして《宿命に対する諦め》を持つ。
それは俺自身の思考であり、作品単体の原動力ではない。
だが、諦めとは決してネガティブなものだと言及はしない。
『メランコリア』で描かれた救済のように、人間の魂の本質に迫るほどのものでもない。
もっと現実に即した、言うなれば、Carpe Diemの精神である。
『メランコリア』と同じ星の下で生まれたわけではないが、その誕生シーンは似通いすぎている。
だが、それが諦めに繋がらないことはもっともな話で、俺はただ完成のために尽力するほかない。
これもまた、宿命なのだ。
けれども、震災後のリアルを映し出す、あるいは今現在の作者自身を映し出す鏡として、『R』は試金石ほどの輝きは齎してくれる。
金字塔にはなりえないが、絶望のなかの希望にはなってくれるだろう。
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