『テルミン嬢』。
テルミンですよ。ヤスミンじゃありませんからね。
この手の作品は、情報を蓄積することでこそ面白みが発揮される作品だと思います。よって、
『延長コード』や、
『YYとその身幹』とは異なる公的な意味合いで内容について触れるのはやめようかと。
とりあえず作者のSF作家としての顔を代表する作品(もちろん短篇に限定した場合において)であることは間違いない。理論を物語力で押し沈めた『五色の舟』とは真逆に、理論の推進が物語の走査を担っている本作の方が、SFプロパーにおすすめしたいところ。
とはいえ、物語上の説得力が、まぎれもなく作者独自の文脈によって支えられていることなどから、並みの作家が同様の着想を持ったとしてもこのような傑作の形に仕上げることは不可能。
SF層に一気に作者の名を知らしめた長篇
『バレエ・メカニック』もまた同系譜にあたるのですが、構成・視点・テーマなど作品を象徴付ける要素が文脈とともに変幻を繰り返すものだったため、幻想の二文字で語られることが少なくなかった。だがこの作者の作品は、幻想とは一線を画す界面に立つことが多い。それを長いこと、俺は超現実だと思っていたのですが、
http://twitter.com/#!/Kawade_bungei/status/78661447764295680
と、版元の河出書房新社のtwitterで、"反現実"という単語が用いられていることに大層納得した次第。出自までは調べが至らなかったのですが、まさしく作者の世界観はこれ。
現実的な意識で臨めば、本作も途方も無く莫迦莫迦しいものに見える瞬間がある。だって、ミジンコが雨雲に感化されて歌を歌って、男は天使殺しを犯し、女は火星という脳の迷宮を駆けずり回るのだ。
とはいえ、刹那しくも莫迦莫迦しく、綾しくも莫迦莫迦しく、悪阻ろしくも莫迦莫迦しい作品を描く、否、描けるのがこの作者。
個人的には
『五色の舟』よりも、本作の方が、ヤスミンの世界観を堪能できると声を大にして言いたい。
今から本作に初めて触れ、そして
『バレエ・メカニック』へと旅立っていける、あるいはその逆でもいいけれど、これから洗礼を受ける読者が羨ましくてしょうがない。
いよいよ末篇、
『土の枕』である。
日露戦争に葦村寅次という小作農の男が召集された。但し、実際戦地に立ったのは地主の嫡男である田仲喜代治であった。二男三女をもちながら召集された寅次を不憫に思い、名を取替え、書類を細工し、出征したのだ。戦争が終わりなんとか生き延びた喜代治に待っていたのは、替え玉であった寅次本人が郷を離れた上、田仲喜代治という存在は肺病で死んだとして戸籍からとうに抹消されたという実状であった。戻る家のなくなった喜代治は、実家が所有する土地の幾許かを譲り受け、以後も小作農の葦村寅治として生きていくことを決める。だが彼には、戦火に斃れた友人の遺言をその家族に伝える使命があった。友人が逝く間際、目の悪い彼の妹を名医に診せてやると約束したのだった。地主の嫡男として最後の贅沢を、と父親に頼むと、父親は家人に優れた眼医者を探させ……。
遥か地への夢に突き動かされ、戦地へと赴いた男の半生を描いた一編。その後、彼は奇縁に恵まれながら、経済成長の時期を経て、後世へと生き永らえることになる。
後々になって行けば行くほど、明瞭にあぶり出される、人間社会の不明瞭な点。例えば、戸籍法であったり、土地分配であったり。だがそれらに対する皮肉は所詮添え物で、主軸となるのは時代に呑まれ、時代に刻み付けられた宿命の足取りである。
親から子へ、そして孫へと伝わる歴史に確かに偽りはない。戸籍上ならずとも葦村寅治は本人以上に葦村寅次であったに違いない。違いないのだが、そこに隠された歴史を知れることに、社会の不明瞭さがあるのもまた事実で、話は変わるのだが、今般の大震災によって津波に呑まれた住宅・役場、戸籍も流され、まさしくその地域の住民は存在ごと波に呑まれてしまったような状況に陥ったわけだ。そのことが思い出される。不謹慎に聞こえるかもしれないが、これもまた本作に与えられた奇縁なのかもしれない。
時代とは単なる時の流れではなく、人の歩んだ形跡である。そして一族の系譜というのも、先人たちの築いた隧道であるのだろう。
本作は、とある一人の男が別人として生まれ変わり死ぬまでを描く物語でありながら、後の子孫が田仲喜代治なる人物の消息を掴んだことによって、これまでの分脈を途絶えさせられた一族の系譜でもある。もっとも、子孫の行動により一族が絶えるということではない。あくまで明瞭さの終結であり、その血脈は以後も継がれて然るべきものだ。
さながら荒廃した土壌から芽吹き、幾度もの枯渇を味わいながらも成長を続け、枝の末端が根までを遡る、巨樹の成り立ちこそ感じさせる。
だが真に哀しきは、戸籍なる添え木を当てられた巨樹が生い茂った現代、青々とした葉、枯れる葉の行方は見えても、地下の根、植わる土壌まで覗き見る余裕がなくなったことかもしれないということ。
……と、語りなおすことには何ら意味もない。作者は、これらの謎、問題、希望、苦悩を、たった1万文字足らずの短篇で書ききっているのである。
もったいないかと思うかもしれない。しかし、この密度を長篇に延べて著すことがいかに無意味か、本作を読めばすぐに分かる。断じて言う。短篇だから傑作であり、短篇でしか描けぬ物語だ。
幻想でもなく非現実でもなく、"反現実"を描く作家、津原泰水氏の描く"現実"は本作でしか味わえない。
ということで、長々と書かせていただきました。
冒頭に述べたとおり、これは俺のmy story。作者の意図が正確に反映されたものではなく、それこそ読んだ者それぞれが抱く解釈の一例に過ぎません。
お気に入りは、『延長コード』、『微笑面・改』、『琥珀みがき』、『土の枕』……思い返せば、もちろん全部と言いたくなってきましたが、そんなところでしょう。
どこかの感想でも書きましたが、正直【綺譚集】を超える作品集は出逢えない、そう思っていました。津原フリークと自称しながら、雑誌を追うことさえせず、こんな風にいけしゃあしゃあと語っても到底説得力はないのですが、【綺譚集】の素晴らしさは思考に対して暴力的な各篇が、一冊の本に集ることで為す、作品集としてのアトモスフィア、衝撃にもあったと記憶しています。アンソロジーでは感じ得なかった、作者の側面がこうして集ることで連鎖反応的に察知できるという妙。それが、【綺譚集】の凄みであり、本書の凄みでもある……はずだった。
本書収録のうち、既読だったのは『五色の舟』、『延長コード』、『微笑面』、『土の枕』の四篇に過ぎません。そんな状況で本書に出逢った身としては、各篇のあまりの完成度に慄くばかりで、【綺譚集】の衝撃はもしやハッタリに過ぎなかったのではないかという邪念さえ生まれました。
けれども、【綺譚集】の衝撃とは、ブロック塀を曲がった瞬間に車に撥ね飛ばされたような事故の衝撃であり、一方本書の衝撃は、何の前触れもなく愛する家族が殺されたときの衝撃に近いのではないでしょうか。
頭にドスンと落ちてくるものと、心にズドンと突き刺されるものの違いとはそういう意味です。
今後これらとはまた異なる衝撃が生み出されるのか、それが愉しくて愉しくてしょうがない。それが作者の罠であり、妄執でのめり込んでいく自分に危機を感じたりもしますが、この罠の依存度はなかなか味わえるものではない。
と、そんなことを語るに語って、自慰にも似た興奮を曝け出しているのですが、もちろん万人に通じるものとも思いません。好むものと嫌うものの格差がより明確に離れてしまう宿命にあるような作風ですので、ある種宗教じみた偏愛にドン引きの方々もおられるでしょう。
好むものとしての立場で言うと、特に本書は日常生活や生まれながらの価値観をとりあえず忍ばし、考えるのではなく感じるというスタンスで挑めば、良さは分かろうというもの。ただ、文脈と文脈の狭間に余白があることもしばしばで、単純に文章を味わえばいいというものでもないところがミソ。だからこそ難しいし、だからこそ面白い。なんでこんな文章が書けるんだ!俺には絶対書けねえ!と思ったら、それが本書を愉しんでいることにもなるのだと思います。
理解が及ばなかったら、ではなぜ及ばぬのかを考えてみてください。それが読書体験の醍醐味でもあるし、本書を愉しむ第一歩です。
まあ、無理強いはしないけど。つまらんものは何と言われたってつまらんからな。読むのも厭だろうしな。
というか、こういう作者はスポットライトを浴びれば浴びるほど、自分の手元から洩れていきそうで悲しいのだ。だから知る人ぞ知るでいいのだ。俺だけのものなのだ。だから、誰も読むな!
な~んつって。
以上、語り足りましたので御愛想をよろしく。
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