作家井上雅彦が立ち上げた全編書き下ろし・テーマ別・ホラーアンソロジー。今や50巻さえ目前に来たモンスターシリーズ、《異形コレクション》の記念すべき第1巻。テーマは“恋愛”。
人類にとって、最も古く、最も強烈な感情とは……もしかすると……恋情ではないか。
編者によるエピグラフ。
よくよく考えてみれば、恋愛は性欲の発展形に過ぎないわけだから、最も古く強烈であるのは当然のことじゃないのか、とか考える。
それはまぁ冗談だとしても、ラヴクラフトの名句になぞって語られると不思議と強烈なインパクトがあって、むしろ置き換えられてしまう前の単語《恐怖》に馴染みのない読者―――つまり俺みたいな病者とは違う―――物語に興味を求めないリア充様の方がその言葉の重みをよく知っているのではないだろうか。死ねばいいのに。
さて他人の下半身事情なんてほっといて、本書を紐解いていこう。
ホラーアンソロジーと銘打たれながら、SFアンソロジーとしても評価の高い謂れを先んじるように、冒頭には
『テレパス』(中井紀夫)が配置。テレパスとは人の心を読む超能力のこと。超能力っちゅーことで本格SFのガジェットとしては怪しさがある題材なのだが、そのキワドさもまた《異形コレクション》の本領域なのかもしれない。
恋する相手の心が読める、とは相手からすれば読んでもらえるというわけで、「私の気持ち分かってよ!!」だとか「俺の気持ちも知らんくせに」などと愚痴る恋人達へのアンサーソングともいうべき本作を読むと、じゃあじゃあこれが本当の幸せなのか正しい答えなのかと考えさせられる。
作中で導かれた理想的な関係は、果たして究極の愛なのか。幸福な世界なのか。或る意味ディストピアSFにも通じる、批評と洞察性。ハッピーエンドか否かは個人の恋愛観に託されてしまうので要注意。
初っ端から恋愛観を揺さぶられ、続いては
『女切り』(加門七海)。
悲恋をきっかけとして切り出された物語・怪談は数多にあり、本作もその系譜にあたるが、ただし男女の恋愛に添えて物への執着という側線を持つ。自分の好きなものに尽くす、その相手は必ずしも人間とは限らない。本作では日本刀を媒介にして、背景にある愛人への思いを作者らしい歯切れのよい美文で語られていく。
恋愛には、嫉妬と羨望という禍々しい感情も時に必要なのである。重ねれば重ねるほど血糊が濃厚になるように、他者からの視線が恋情をより強く彩る場合もある。
それは当事者にとっては悦楽の極みなのであろうが、最も悲劇なのは……他者の恋愛に関わることになった第三者なのだろう。つまり、本作の主人公だ。
『逃げ水姫』(早見裕司)は、前二作が訴えていた妄念渦巻く恋模様にぽんと投じられる清涼剤の趣き。
編者解説でも触れられているとおり《異域への恋愛》がモチーフとされている。このテーマは簡潔に言ってしまうと、ロミオとジュリエット式の“禁じられた恋”、物理的に捉えれば究極の遠距離恋愛、二種の複合体ともいえる。
それでいて本作は“セカイ系”の枠組みを取り入れ、さらに悲劇的な御伽噺となっている。恋の終わりが世界の終わり、にしてもどうにもこうにも稚けなオチなんじゃねーのと思ったりする読者も居りましょうが、誰しも純愛を前にすれば世界の脆さを否定することなぞ出来ないのではないだろうか。
ところで、愛のなかには自己愛というものもある。
『地下のマドンナ』(朝松健)は脳外科病棟を舞台とし怪奇探偵小説の風合いで、自己愛の語源でもあるナルキッソス神話を語りなおす。
実際、相手より恋そのものに恋してしまうこともままあろうし、恋する自分が好きだという物好きもいるやもしれない。かと言って、本作はその類の自己愛ともまた違う。
自分と似ている人を好きになることもあれば、真逆を選ぶことも恋愛の常。一方では同類意識によるものであり、もう一方では遺伝子的補完によるものともいう。では自己愛はどちらかと。無論、完全なる前者である。
そもそもナルキッソス神話では水鏡に映った顔が自分だと気付かないという盲点があり、その一点のみで自己愛が語られてしまうように思える。そして本作も似た方法論で、盲点を描くのだ。
つまり、自己愛は自己理解とイコールではないということ。そしてそれは、人間の脳が未だ脳自身に対する理解を備えてないという科学的アプローチにも繋がってしまう。
これまでは観念的に恋愛を切り出した作品ばかりだったが、状況的な恋愛をここで。
『ニューヨークの休日』(森真沙子)も“愛情のもつれ”で起こる悲劇を描いた一編だが、事実は小説よりも奇なりと言ってしまいたくなるほど超能力も幽霊も異世界も幻影も出てこない。
出張で訪れたニューヨークという矮小な非日常を舞台に、誰もが少しは期待するスリリングな恋愛を体験する。とはいえ、この場合のスリリングはヒステリックとも言い換えられ、もっとも作中人物の感情は、恋愛感情と捉えるより隣人愛と受け取ってしまった方が怖ろしい。同類意識だけでは恋愛に発展することはないのだが、隣人愛はそれだけで成立してしまうのだから。
古くから異類婚姻譚、異獣婚姻譚などと称して語られているとおり、人間と人間でないものとの恋愛も見逃せない。しかし、
『怪魚が行く』(田中文雄)で描かれる異類との恋は、物への執着や人外のものへの愛情を突き詰めたものではない。
重要なのは、本作の異形が元は人間だったという点にあって、元から人間でないものへ恋情を抱くよりも、人間でなくなってしまったものへの恋情を絶やさぬことの方が難しいのだという論理が根底にある。とは言え、本作の恋人達はそれを容易く可能にする。
本作を読むと胸が締め付けられる。他者から見れば恋とは野蛮なものなのか、当事者にしてみればこんなに尊きものなのに……異形な描写にそんな切なさが込み上げる。アンデルセンの『人魚姫』の要素をすべて反転させるとこんな形になるのかも。
愛に情熱はつきもの。ただし、情熱とはおよそ冷めてしまうもの。では愛もまた途絶えてしまうのか。否、
『老年』(倉阪鬼一郎)を読めば察することも難くない。一過性の情熱ばかりが愛の本領ではなく、積年の思いがより愛を深くするのだと。
本作は“御伽噺の晩年”という側面もあるが、これがまた愛の深みを理解するのに功を奏している佳品である。何故ならば、我々ホラー愛好家は、作中人物が若かりし頃に見せた情熱的な愛の昂ぶりを目撃してしまっているのだから……あのペンシルヴァニアの孤城で。
恋愛と近しい感情に憧憬がある。恋が血の通った幻想であるならば、憧憬は恋愛から肉を剥いだ皮袋ではないか。
『赤とグリーンの夜』(井上雅彦)を読むと、そんな偏屈なレトリックさえ口に出てしまいそうになる。
サンタクロースをモチーフにしながらも都市伝説で有名な赤と青のくだりであったり、コスチューマーの殺人犯も登場したりと遊び心至れり尽くせりだが、これまでの作品、ある一面からすれば真っ当な恋物語たちを尻目に、淫楽とも呼べるであろうR指定の恋愛にも及ぶ本作は実に異質。歪んだ恋の玩具箱とでも云おうか。年上男性への憧憬と聞いて、なんか禁断の匂いを薫ってしまう御仁には最適な恋愛シミュレーション。
恋に恋する場合もあると前述した。恋は血の通った幻想である、とも喩えた。それは恋というものが実体のある事象ではなく、概ね人間の内側で描かれた虚像であるからだ。だから様々に置き換えられるし、心置きなく……酔っていられる。
『スマイリング・ワイン』(奥田哲也)は旅行先で出会った恋―――リゾラヴァが一過性であると喝破してしまう。ただし恋に醒めるは、酔いから冷めての結果ではない。吊り橋効果の及ぶところならまだしも、本作の愚かな恋奴隷はそれ以上の魔酒に味をしめてしまったからだ。
作中、恋する男性についての描写があまりに朧気なのは、そもそも彼に対する恋情がさほど実体を持たなかったことを表しているに他ならない。恋多き人間はそのように、気ままに浮かされて酔いどれを繰り返していくのだろう。燃え上がる情熱を想起する真紅色の魔酒に誑かされるように。
人間の女に恋をし血を吸う吸血鬼の物語ならぬ、吸血鬼に恋をし酒を啜る人間の女の物語であるという対比も、美酒のごとき旨味の源である。
愛のはじまりとは如何なるものか。友情から徐々に芽吹いていく愛もあれば、唐突に現れた奇遇によって瞬間的に芽生えることもある。
たとえば、街角で偶然ぶつかる……ベタな青春ドラマのプロローグめいた書き出しで始まる
『猫女』(竹河聖)。運命的な出会いに絡め取られる様を、化け猫物語をトレースしながら、やがては愛が所有欲であり且つ独占欲でもあるという結論を導いていく。
結局のところ、この猫女の目的は明かされないのだがそれも至極当然。恋した理由を詳細に語ることが難しいのは、恋をしたことのある人間ならよく解る。一目惚れ、という恋の重要なファクターに関する思考実験と説けばより解りやすいだろうか。
というか、この猫女となら付き合いてえなあ んー
過ぎ去った恋は消えてなくなってしまうものの虚像として人間の胸中に残る。
時にそれは呪詛のように、汚濁のように消えて離れないこともある。コンプレックス、トラウマ……逃れるために人間は現実から離れていく。現時代、誰しものそばにあるインターネットという宇宙は格好の逃げ場となりうるかもしれない。
『アドレス不明』(友成純一)に登場する魔の存在は、電子網という今ではポピュラーな出逢いの場からやってくる。描かれるのは愛の澱こそ確実に人の心を蝕んでいくのだという事実だ。
見知らぬ男女が知り合う機会を得るという意味を削いだとしても、ネット上の情報自体が未知なる関係性を孕んでいる。知ろうとも思わなかった情報、知らなくていい情報までもが渾然一体となっている海から、取捨選択することが必要と謳われる情報社会において、受信することと発信することは最早同義なのかもしれない。それはブラックホールとホワイトホールが繋がっているのと同じような。
様々な情報を吸収するネットの海と比べると遥かに人の心の容量は少ないのだろうし、ごみ箱を空にするがごとく容易に消去することも敵わない。愛という相手ありきの感情であれば尚更に行き場を失い、恋慕の化石で心はパンクしてしまうのだ。その結果、人は現実を放棄し、ただ闇に堕ちていく。
さて、ここまで恋だ愛だと語ってはきたものの、どれもこれも手に入れて(あるいは手に入れてしまって)からの物語ばかりであった。けれども恋のプロセスというのは持続すること以前に獲得するのが難しい、というのは周知のこと。
本書に収録されたなかで純愛を描いたものが幾つかあるが、最も不純な純愛は
『REMISS[リミス]』(久美沙織)で描かれた愛でなかろうか。
容姿に恵まれなかった処女の女が、近親・ゲイ・命短しという三重の障壁で阻まれた相手との恋を成就する物語であるが、この女が助けを求めた魔女が語り手、というところが変則的であり、先に述べたように他者の恋愛がグロテスクに感じられるのもむべなるかなという具合。
何故ヒロインがくだんの男を好きになったかの理由には、三重の障壁があまりにドラマチックだったという点に尽き、そのうえ処女を捧げるには彼しかいないと決意する様は、白馬の王子様願望の究極形である。とはいえ後半に至っては、編者による紹介にも記述されているとおり『幸福の王子』や『人魚姫』を連想するような犠牲の物語になっていくところがミソっかす。
恋を持続させるため、発展させるため、何より獲得するために犠牲も必要だ。犠牲から始まる恋があれば、犠牲こそが恋するゆえの行動になることもある。
語り手である魔女がなぜリミスの物語を語らねばならなかったのか、という状況を鑑みると、人を愛するためには自分を犠牲にしなければならないという寓意、あるいは真意がこの物語を支配していることに気がつく。読者はそれを知ってようやく、これまで語りかけられていたのは自分であることを悟るのだ。
メルヘンチックな題材を用いていながら、リアルな恋愛にはつきものの性のファクターがストレートに描かれているのも特色で、どうしても奇麗事にされてしまったり、観念的に昇華されてしまう愛の物語が、客観視すればこれほどまでにおぞましい性愛の交流であるとまたしても気付かされる。
一風変わって
『加害妄想』(高井信)も行き場のない愛を主題とし、それにより齎された妄執がもしも外部に影響を与えたらという物語。
とある加害者ととある被害者が登場するが、どちらの視点で語るかによって作品の寄る辺も変わってくるだろう。加害者側に立った場合、妄想が感情に勝利する顛末が覗けるだろうし、一方で狂気とは真新しい感情ではなく、普遍のものから何かが差し引かれた状態なのだと察することができる。本作の場合、差し引かれたのは罪悪感というわけだ。
目新しいのはその罪悪感がそっくりそのまま他人に移しかえられるという状況であって、それは被害者側から見ると超自然的な妄想と捉えられ、こちらもまた感情が妄想に敗北してしまう結果となる。
いささかラヴ・フリークという題からは疎遠してしまっているきらいはあるが、加害者の行動原理には愛憎が源にあって、被害者の陥った状況も裏返しになった愛憎の反面に位置するのだろう。最も古く、最も強烈な感情とされた恋情は、言い換えればこの上ない不条理の賜物だということになる。
恋にはジンクスというものがある。何かをすれば恋が叶う。何かを共有した二人は結ばれる。
『太陽に恋する布団たち』(岡崎弘明)の場合、ジンクスのためのアイテムは布団だ。それも太陽に恋して空を飛ぶ布団。アラビアンナイトでは絨毯が空を飛ぶぐらいだから布団が空を飛んだって構わないのだし、何よりラヴ・フリークというテーマを完全にファンタジーに昇華させた成功例であるように思えるから無問題。
しょっぱなから青空を背景に数多の布団が飛行しているというヴィジョンに心奪われ、同じ布団に男女が乗ると結ばれるという伝説や、天国との関連だったり、布団というアイテムの活用がぬかりないことに感嘆させられる。話の主題こそ祖父に関する思い出であるが、それ自体が布団祭りという《奇妙な祝祭》に絡んだ人々の愛情の積み重ねであり、さらに、思い返している今――つまり現代さえもが、布団祭りのジンクスに守られた恋物語の一部であるという着地まで披露させられてしまえば、傑作と呼ぶにふさわしい出来。
「布団が空を飛ぶだけの話」と皮肉ることが出来るのも、布団の神秘性をよく知る人間が抱え持つ、村と祭りへの揺るがない愛によるものなのだろうし。
“恋とは憑依かもしれない。憑りつかれた者を慕う恋も、また憑きものかもしれない。”
編者解説をそのまま引用してみたが、
『東京悲恋奇譚』(飯野文彦)を紹介するにこの上ない名句ではないだろうか。
今でこそ草食・肉食系とカテゴライズされ、恋愛遍歴がステータスとみなされなくなってきた。けれども色恋沙汰を願ってやまない人間は少なからず存在するわけで(俺!)、出会いがないだの奥手だの、と恋愛以前の悩みの種も尽きない。
本作の主人公も割かし普遍的なコンプレックスを持ち、酔った勢いながら、狙う女に童貞であることをたらたら愚痴るような恋愛下手。そんな彼が意中の女を軸とした三十年来(実はその十倍)の恋路に巻き込まれるという話で、構造としてみれば『猫女』と、悲恋ぶりも含めれば『逃げ水姫』なんかとも被ってくる。
結局この悲恋は仕組まれたものであり『女切り』と同様の“第三者の孤独”でしかないが、では端からアダムはイヴの片割れになれなかったのかというとそうでもない。悲恋のきっかけは主人公が堪えきれず女を路上で抱き寄せてしまったことだとはっきり描かれているのだ。
肉体関係なくして恋愛は成立しないとはいえ、この主人公の行動はいわゆるフラグ、分岐点であることは確か。つまり本作で描かれるのはエロゲのバッドエンドだとも云える。
もっとも悲劇は、狂言回しだと思われたキャラクターが機械仕掛けの神ともなれ、主人公こそが狂言回しだったと知らされる終幕にあるのは云うまでもない。
思えばこれまで恋とは何か、愛とは何か、すべて知った風にさもそれを手中に収めたが如く、語りきる作品ばかりだった。実生活においては何ゆえ人を愛し、愛しているものが何たるかを自覚しながら、人は恋を育むものではないか。やがてその恋がある地点に辿り着くと、少し意気は抑制され、冷静に考える余地が生まれる。そのタイミングこそ、結婚である。
『人殺しでもかまわない』(矢崎存美)が描く恋の恐怖が異質であると紹介される所以は、論理が破綻しているからではないだろうか。物語とは常識的に考えてたとえどんな不条理であっても、ある一定の補助線を引けば論理的に見えてくる。
たとえば(設定以前の問題になるのだが)先の『加害妄想』は根幹となる不条理の部分、何故隣人から主人公に罪悪感が移ったかという問題に、主人公が特別受け止めやすい体質だったのよと根も葉もない回答をしさえすればいい。そうすれば結末において主人公がおかれる精神状況は極めて論理的に導かれたオチになっているだろう。謂わば『加害妄想』は取っ掛かりに理由を持たされていないだけの不条理ともいえる。
一方、本作は一見すれば不条理とは言い難い。
主人公は結婚の挨拶のために交際相手の実家を訪れ、再三奇妙な現象あるいは言動に直面する。その理由、原因である交際相手の隠された過去と本当の姿が後に曝け出される。論理的に考えれば、それを受けた主人公には二つの結末が用意されると考えられる。
一に、結婚を見直す。普段見知った交際相手には、人として疚しき裏の顔があるのだから。あるいは、愛の力を信じる。タイトルのとおり『人殺しでもかまわない』と決心し結婚に踏み切る。
本作は後者にあたる。ただし、状況に限定すれば。感情的にはそのどちらでもない。人殺しであるという事実を受け入れるどころか、好意を寄せたそもそもの発端をそこに見つけてしまうのだ。それまでの経過を覆す事実を肯定するということは経過そのものを否定することにはならないものの、交際相手の裏の顔を肯定することでそれまでの表の顔を否定してしまうことにはなる。同時に、否定されたこれまでの愛は、新たな愛に塗り替えられてしまった。これは不条理以外の何ものでもない。
また『加害妄想』の逆を辿るように、この不条理は取っ掛かりに理由を持たされていることがラストで明かされ、そこで初めて不条理だと分かるのだ。だからこそ異質、だからこそ怖い。人の愛は、……趣味は。
愛のリアルを突きつけられて嘆息しきりの少年少女に、ここでラヴストーリーに夢を馳せる余裕を与えよう。
運命的な出会いを果たした二人の男女が、あるひとつの約束で持って再会を果たす
『約束』(津原泰水)。編者が提唱している《PHANTASY》という概念がある。編者紹介では本作がその絶好のテクストと記されているのだが、具体的にそれがどのような条件を得て割り付けられるのか明かされていない。
なのでまず《PHANTASY》に対する個人的な見解を述べよう。
一般的なファンタジー《FANTASY》は日常とはかけ離れた世界、非現実的な事象を取り入れた物語群であるから、ファンタジー=異世界に対応するように《PHANTASY》=死後の世界と位置づけることも出来るだろうし、単純に幽霊(のようなもの)が登場するファンタジーの一部であるとか、死の恐怖を感じさせるファンタジーであるとか……幾らでも考えられる。
しかしあえてファンタジーを現実逃避の賜物と言いくるめてしまい、現実から非現実へと遠ざかりながら現実の脆さを悲嘆する、またその一方で非現実と化した物語自身が非現実の儚さを自ら悲嘆する物語としてみよう。《PHANTASY》とは現実と非現実を相互に悲嘆するための《FANTASY》。批判でも、非難でも、否定でもなく、悲嘆する物語……それが《PHANTASY》。如何だろうか。
閑話休題。
本作を《PHANTASY》たらしめるのは、病で死んだ男女の片割れが《約束》そのものになり、やがて現実と非現実のあわいに生き続けるという悲劇にあるのはもちろんのこと。終盤において、境界を越えた男女が再会するシークエンスがあるが、これこそ情念が非現実へ飛翔する瞬間であり、二人の《約束》が現実を打ち崩した証でもあると考える。しかしこれでもまだ《FANTASY》の域を脱していない。ようやく成就したフィクションの勝利が、また崩壊する最後の一行。そこで《PHANTASY》に生まれ変わるのだ。
恋に夢を見る、恋にフィクションを描く、それは最も幸福なことである一方で、最も悲劇的だ。けれども、それらを糧として人は恋をする。受け入れるべきありのままの現実は、美しい泡沫の上にあり、だからこそ本作は“美しい話だ。”という自覚的な書き出しで始まるのだ。
ちなみに私事ですが、本作ひとつで津原泰水という作家、《PHANTASY》なる物語群、そして《異形コレクション》のラヴ・フリークになるに至った事実を添えておきます。
ここまで長々と恋愛について、或いはそれに付随する感情の機微、物語の魅力を物語評に乗せて述べて来たが……それらすべてを包括する作品が、
『砂嵐』(皆川博子)といっても差し支えはないだろう。ちなみにこの作品わけわからんからつまらないとか云う輩は、いますぐ本置いて、読解弱者!と叫びながら腹筋百回の刑。
話の関連としては、ハンデを背負った男女が病室で密かに逢引するなかで生まれた作中作とも読めるし、それこそ『約束』のように神聖化した恋愛を至極冷静に捉え、批判でもなく否定でもなく真っ向から悲嘆した物語であるとも読める。本作に忍ばされた物語としての意図は硬く、頑丈に拵えられた鉄柱のようだけれども、その読み取り方は非常に難解。意味は読者に手向けられる。
そもそも、物語はそれだけでは成立しないのである。
読む、聞く、手段は何であれ、それを知る存在がいなければ物語は生まれもしないし死にもしない。これはまさしく恋愛にも置き換えられる。恋する対象がいて初めて生まれ、成就しないがために滅んでいく愛。編者紹介にて贈られる愛の言葉が象徴するように、語るものと語られるものとは、物語を愛するものと愛されるものに近しい。よって、物語と恋愛は似ているのだ。
謂わば、本作を愛するものは、実は本作から愛されているという妙。これはもちろん内容とも符合している。
本作のとある筋の発端をつかむならば誕生の秘戯を表しているとも云えよう。誕生するものとは赤子でもあり、物語でもあり、関係そのものでもある。
舞台は病院、寝たきりとなった語り手の女と、車椅子生活を送る“顔は、ないにひとしい”男。男は女のベッドを訪れ、唯一綺麗な外見をしている両手の指を使って物語を演じる。
このように表層だけを見れば、前述したとおり、ハンディキャップを持った二人がそれぞれの欠損に共感し、理解者として出会い恋に落ちたとも思われる。けれども、二人はお互いが何たるかをよく知らない。年齢も、その素性も、おそらく知らないのだ。唯一、二人が共有し、二人を結びつけているのが、物語。
記号によって語られ二人にしか解せない物語は、砂嵐によって度々遮られてしまう。女が赤ん坊の皮を剥き、詰まっていた砂を開け放したのだった。
一方の男は、人間としての機能を削られ、顔を袋で覆い、自身が産み出した物語でさえ制御できずにいる。物語上の主役は白い騎士……女は、青い騎士だと思う……であるが、その足取りは女が開放した砂嵐によって奪われてしまう。
重要なファクターとして用いられる砂は、忌むべきものの象徴だ。
レイプされて孕んだ赤ん坊に詰まっているものであり、騎士の足を不能にするのも砂の仕業。ここでいう騎士は、車椅子に乗る語り部の男の象徴であり、その男、醜い顔を袋で覆うような男は、汚点を曝け出すことを望まない。
しかし、女の方はむしろ秘匿を望まない。赤ん坊の皮を剥き、青い騎士という殻を被った男の人差し指に噛み付き、人間らしさの象徴である血を吸うのだ。
騎士の物語を演じたのは男の指だ。しかしはじめて言葉にしたのは女なのである。女は男の物語を愛し、そして実らない恋と浮かばれない想いを砂に具現化したのではないか。やがて物語にも二人の関係にも終焉が近づく。男が語るのを止め、女は死ぬ。
ではこの『砂嵐』という作品を物語っているのは誰なのか。それが気にかかる。
男は女を愛した。直接的に描かれてはいないものの、視界を閉ざされた男がわざわざ病室を訪ねて物語に興じる理由はそれ以外にない。騎士の物語は男の指で演じられた芝居に、女が感化され幻視したものかもしれない。しかし、女亡き後も紡がれる枠物語に至っては、傍らで眠りに耽る男の夢物語である可能性もあるのだ。
しかし、そうでない可能性の方が高いだろう。二人の物語は他の誰にも伝わらないがため、物語の抜け殻は医者の手によって屑篭に葬られる。そんなラストシーンは物語そのものの弔いでもあるのだから。とはいえ、それこそ男が望むものではなかったか。曝け出されることを畏れた男が、最後に選んだ場所が屑篭のなかだっただけに過ぎないのではないか。そう考えると『砂嵐』という物語の意味が理解できてくる。
物語を愛し、語るものが、物語に愛され、語られるものへと変じるなかで、愛する者から愛される者へ送られた恋文ともいえるのではないだろうか。
恋とは無垢なる狂気であり、静かなる暴走であり、たゆたう情熱であり、防ぎようのない病であり、憎めない不条理であり、語らずにはいられない物語とも呼べる。本作は視点が曖昧になっており時系列も散漫なため難解に思われるが、その実、重層的な物語の皮袋に包まれた極上のラヴロマンスなのだ。ただし終始鬱切した、愛の。
〆は、廃墟の似合う“運命の女”に溺れる軍人の物語、
『貢ぎもの』(菊地秀行)。
日本ならぬ日之本国、アメリカならぬアメリゴ、ドイツならぬドイチェ。どこかにありそうでないパラレルワールドを舞台に、かの大戦を髣髴とさせる戦地下。日之本国の首都・トキオ市を爆撃し市民二千人を殺害した将軍のもとに、ライターがインタビューをしにいくという切り出しから、いかに将軍の行為が人道を外れているかについて語られていく。そしてその原因に、ひとりの女の存在があった。
この女、見た目こそ醜女でありながら、いかんせん廃墟との相性はベストマッチということで、徐々にその魅力に惹かれていく男達は莫迦者の極み。地位も名誉も権力もありなおかつ強大な力を持つ男が恋の魔力に触れてしまったら、国一個が滅びかねないんだという荒業に至るという一点についてはまあ無くはないなと思ってしまうけれども。にしても、女が不気味。
黒衣の女と将軍の元夫人、別人と強調されるほど明確にされた裏と表で、語り部である記者がミイラ取りがミイラになったように、黒衣の女に惹かれていってしまうのもまたよくあるシナリオながら、そのライヴァルに将軍ではなく別の将校、言わば“貢ぐもの”の第二世代に交代されたことで、一層女の魅力が深化し、伝染病が蔓延していくようなヴィジョンを見せ付けられる。
もっとも女の内面についての描写は皆無なため、これらの光景、周辺で男達が空騒ぎしている光景をどのような面持ちで見詰めているのかが気になるところだが、そんなことに気を取られていると、ラストで“貢ぐもの”が“貢ぎもの”に反転するという悪魔的な結末が待っていてすこぶる後味が悪い。
描かれた男達の野蛮な恋心に感化されて、廃墟に佇む黒衣の女に心惹かれてしまった読者にとっては、ヴェールに隠されていたその表情がうっすら透けて見えるクライマックスに戦慄を禁じえないだろう。ああ、怖いロンドン。
はてさて。
恋とは、理由を持った興奮であり、実体を持った影であり、血の通った幻想である。だからこそ恋には赤が似合う。本書の表紙もメインカラーも赤、サンタクロースの服も赤、そして小指をつなげる糸の色も赤。
真っ赤なハートマークが脈打つ心臓ならば、本書に描かれた物語の数々、さながらいびつなハートマークは、鷲掴みにされた読者の心臓を模写したもののような気さえする。本書を語る上で、異形コレクションのシリーズ全体についての言及が欠かせないのはもちろんだが、それを抜きにしてもホラーアンソロジーとして豊かなバラエティと確かな手ごたえを感じさせてくれる逸品。
叙情性、凶暴性、悦楽性、嗜好性、依存性……幾つもの側面を持ち、個人の価値観で姿かたちを変える、LOVEという題材こそ、異形コレクションのテーマに相応しいものはないのではないか。
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