手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『セカンド・ショット』/川島誠

セカンド・ショット (角川文庫)


電話がなっている。君からだ。だけど、ぼくは、受話器をとることができない。いまのぼくには、君と話をする資格なんてない。だって、ぼくは…。あわい初恋が衝撃的なラストを迎える幻の名作「電話がなっている」や、バスケ少年の中学最後の試合を爽快に描いた表題作、スペインを旅する青年の悲しみをつづった書き下ろし作品を含む、文庫オリジナル短篇集。少年という存在の気持ちよさも、やさしさと残酷さも、あまりにも繊細な心の痛みも、のぞきみえる官能すらも―思春期の少年がもつすべての素直な感情がちりばめられた、みずみずしいナイン・ストーリーズ。


 焼酎をまぜた清涼飲料水のごとき、瑞瑞しくも、苦く毒々しいものがたりたち。トラウマの傑作『電話がなっている』『ぼく、歯医者になんかならないよ』がやはり白眉。死と孤独と性と、生まれたての自我が渾然となった多感な時代、自意識と社会の境目はひどくあやふやなものだった。ちいさな体に封じ込めたそれらの残滓を掘り起こすと、バカとクソと痛みがよみがえる。『サドゥン・デス』(突然の死という意味。なぜか本篇はもっとも死に程遠い話だが)から『消える。』まで、さまざまな独白を用いて描かれる〈思春期の死〉に胸が詰まる。息が詰まる。http://book.akahoshitakuya.com/b/4043648022


【収録作】
 『サドゥン・デス』
 『田舎生活』
 『電話がなっている』
 『今朝、ぼくは新聞を読んだ』
 『セカンド・ショット』
 『悲しみの池、歓びの波』
 『ぼく、歯医者になんかならないよ』
 『セビーシャ』
 『消える。』





 先に載せた筒井康隆『定年食』の項で、人肉食について書いたら急に読みたくなった。思い返せば、この本といい、浦賀和宏の諸作品といい、俺の青春は人肉食で彩られていたわけだ。そら、鬱屈した日々になるわけである。
 いま読むとあまりにあんまりな素直すぎるモノローグの応酬に苦笑いが隠せない小品ばかりなのだが、『電話がなっている』の静謐さは未だ鳥肌モノで、『ぼく、歯医者になんかならないよ』のオチの酷さも相変わらず。作中と同年代(つまり小学校後半から中学校)の頃に読んだらトラウマ確実と思える。インモラルな異色の青春小説集。


 総じて性に対する興味が横溢しているのが特色といえば特色で、巻頭の『サドゥン・デス』では短期バイト先の事務員が好奇の対象となっており、社会に踏み込んでいくことがテーマの物語ながら、大人社会と主人公たちの生活との間に絶妙な距離感を演出している。
 秋元康/芦原すなお/景山民夫/柴門ふみ/鷺沢萌/樋口有介/真木健一とそうそうたる顔ぶれのアンソロジー『微熱の夏休み』(95年刊行)初出ということで、多少語り口が調子に乗りすぎている(いやほんとに)きらいはあるものの、ケレン味も抑え短篇小説のフォーマットに沿った出来として、ひと夏の淡くも鮮烈な体験記を綴っている。


『田舎生活』では、その社会を“まち”そのものに置き換え、いまにも復讐を果さんとする。社会という大きな圧力に対する反抗かと思われたが、実際はそれもまた別の置き換えにすぎないことを主人公は気づく。悪いのは環境ではなく元凶だと気がつくが、それこそその存在がこどもにとっては最も大きな圧力であるのだろう。なるほど、湊かなえ『告白』の元ネタはこれですね(違う)
 なお、初出は85年刊行の単行本『電話がなっている』の書き下ろしとして。


 エーリッヒ・ケストナーの同名小説から誌名を拝借した81年創刊(95年に一時休刊したが05年に復刊!)の児童文学誌『飛ぶ教室』。幻の名作と謳われる『電話がなっている』はその84年刊行の第10号に掲載された。
 高校進学資格試験の合格発表の夜。ぼくは電話のベルを聞きながら、過去を振り返る。電話の相手は“きみ”からだ。幼稚園の頃から幼馴染であり、かつては恋人でもあった、“きみ”。どうしてぼくは電話に出ることができないのか。どうして“きみ”は試験を受けることが出来なかったのか。
 出逢った頃から回想が現代に近づいてくるうちに、作品の背景にある時代設定が異質のものであることが分かってくる。そして、現代の“きみ”、決められた未来の“きみ”の姿が思い起こされる。
 人肉食が関わってくることはすでにバラしてしまったので隠すつもりはないが、筒井康隆『定年食』とはほどとおい質感ながら、源泉を辿ればおなじく『ソイレント・グリーン』から袂を分かつ作品なのである。しかし、この作品の素晴らしいところは、この設定が実現した場合のリアルな情景が、ラスト、衝撃的なイメージとして描かれる点に尽きる。無論これは作中人物の心から呼び起こされるものであるが、青春小説に埋没されて、より無情に、より哀切に物語られる。
 ここで示しておきたいのは、このラストシーンによって生まれる無情が、藤子・F・不二雄作品でいうところの『定年退食』を読んで生まれるものとは違うということだ。(もっとも『定年退食』は『定年食』と紛らわしいのだが、高齢者の生活保障を切り捨てるだけで、食糧難に対する手段として直接的に人肉食が描かれるわけではない。)
 よって本作は、むしろ『ミノタウロスの皿』の読後感に近い。
 にしても読み返して気づいたが、アレに音楽教師を選んだ“きみ”も、そうとうに酷いものよね。10人読んだら4人ぐらいは、ざまあwww、とか思うかもね。


 おなじく『飛ぶ教室』86年第19号に掲載された『今朝、ぼくは新聞を読んだ』は、『電話がなっている』からある一要素を引き継ぐことで、“死ぬ、というのは動けなくなることだ”という発見を示してみせる。
 病室が一緒で、退院した後は疎遠になっていた老人の死を皮切りに、身近な人の死を体験した作中人物の魂の逍遥。妹との幼いながらも隠微な雰囲気や、スカトロの現実をめくりながら、来るべき死を受け入れるようになる。主人公が視た夢の光景を鑑みるに、本作もまた死神テーマの好篇であろう。


 うってかわってどまんなかの青春小説『セカンド・ショット』。表題作である。
 スポーツ万能のバスケ部主将を語り手に、クラスメイトの運動音痴なデブがいかに秋のクラス対抗試合に出場することになったのかを描く。試合の臨場感は豊かとはいえないし、クラスメイトの描き分けに苦心している(というか読んでるこちらが区別がつかない)気もするが、話の本筋はよくあるピンチ・ヒッター(ピンチ・シューター?)を裏返しにしたもの。
 徹頭徹尾、ブルーハワイにメイプルシロップみたいな爽快さに甘ったるさを上掛けした内容ではあるのだけど、並の作家だったら感動して仲良くなってハイ、となるところを、あくまで一線を引いたラストシーンはほろ苦仕立て。
 みずみずしい『さわやか三組』的アプローチは、陰惨な短篇集の清涼剤としてかけがえのない存在である。


『田舎生活』と同じく、国土社から発刊された単行本『電話がなっている』(85年)から次の二短篇。
 一本目の『悲しみの池、歓びの波』は、グループ交際の渦中にいる孤独を抱えた少年が主人公で、この作品にも漂う死の香り。目に入るもの、人、あらゆることにエロスを引き合いに出す主人公に、なんだ俺じゃないかと思ったのはつかの間、姪っ子である幼女との夜食を機に物憂げから快復していくのは結構だが、姪っ子を膝に乗せた際の想像がもうアレすぎて、いや、俺じゃないな、と敗北宣言をしてしまいそうになる。浮き足立ってはいながらも、本書のなかでは比較的地に足がついている印象。


 二本目『ぼく、歯医者になんかならないよ』。問題作と位置づけるなら『電話がなっている』以上のクオリティではないか。歯医者の家に生まれ、私立中学入学のため塾に通う主人公。優秀な兄と比較され、思うように勉強が捗らず、おまけに父親が塾長にコネ入学の面談をしていることを知った彼は、犯行の末にとある暴挙に至る――。
 ギリシア神話由来のアダ名、ミダスの伏線なんかとっても面白いんですが、「アレ? 別の本に手伸ばしたはずがまだ筒井康隆の本読んでる?」みたいな気分になって、厭ですねぇ。『今朝、ぼくは新聞を読んだ』で少しだけ免疫をつけたうえで、本作をもってブチかますという収録順も実に意図的。


 本書書き下ろしで、異国を舞台にしていることからも異色な情緒(とはいえ人物の中身は他と変わらず多感で孤独な青年)を醸し出している『セビージャ』。両親も後妻も死に、天涯孤独の身になった彼がスペインの地セビージャを訪れ、元AV女優であるダンサー・リサと知り合う。リサの連れである中年男・パコも交えながら、情熱的な国の一夜を過ごしていた彼だったが、彼はいつしか愛し合う事に寡黙を貫くようになっていた。
 先行作品でも垣間見えていた伏線と回収、開陳の妙。本作でも義母との関係が終盤まで明かされない。半ば唐突にこそ感じるものの、それは彼にとって「愛し合う」ことの価値がなかったからではないか。もとより彼は、ものおもう感情さえ欠落しているのかもしれなかった。彼と義母との関係は、作品冒頭でも触れられているとおり父への反発に過ぎないのだろう。本作は謂わば『田舎生活』と対をなす一篇なのである。


 末篇となる『消える。』は他のどれよりも語り手を幼くして描く、思春期の断末魔だ。
 世にある二人称の小説は、概ねふたつの意味に分けられる。作中人物への呼びかけ、あるいは読者への呼びかけである。『電話がなっている』が前者であり、本作は後者。そして奇遇にも、語られる者と少年は自覚している。
 だが、これは小説内であることに限定しても意味が無い。
 人はかならず思春期を経る。過ぎて思えばこっ恥ずかしい思い出も、当時にとっては激しい正確なリアルだった。大半の人々はそのままおとなになり、こどもの頃の自分を葬っていく。そして、当時を振り返り、懐かしくも恥ずかしくも感じるのだ。青春小説とは、リアルタイムで青春を謳歌している読者のものでありながら、かつての青春を知っている読者たちのものであるという意義も強い。
 であるからには、本作こそ、いまはもういない幼き自分からの遺書なのだ。そうして読者は青春という柵と幻想から解放されていく。本を閉じた後に、青臭い芽がふたたび読者の心に芽吹かないように。
 そういった意味で、本作は総括の機能を果たす。否、『飛ぶ教室』(88年第25号)に収録されたからには『電話がなっている』と『今朝、ぼくは新聞を読んだ』の流れを汲むものなのだろう。語りの方式しかり、母親との関係しかり、「ウンコとションベンのまぜたやつです。」しかり……。
 そうして、思春期の隆盛と死を見届け、いま書を閉じる。彼は消える。
 けれど、たまに思い出すだろう。それはそれで心がいたむというものだ。


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プロフィール

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年齢:37
性別:男性
職業:虚無員



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