久々の更新となる。
このふた月ばかりのあいだ、子どもが産まれ、つい昨日には俺自身26歳になった。劇的というにはまだ実感もなにもないのだが、引き換えに当ブログをおろそかにするわけにもいかない。相変わらずの紆余曲折をみせるだろうが行けるとこまで行こう。
前回は長野まゆみ『カムパネルラ』について書いた。長野まゆみ女史といえば、『少年アリス』で第25回文藝賞を受賞しデヴューした。その受賞第1作はたしか『野ばら』ではなかったか。
ということで野ばらは野ばらでも“乙女のカリスマ”の作品集を読んだ。恥ずかしげもなくこういう連想ゲームじみたものが俺は大好きなのである。
さて、『スリーピング・ピル 幻想小品集』は2007年に刊行された『幻想小品集』にボーナストラックを追加して改題文庫化した作品集である。実のところ、嶽本野ばらという作家についてはなんの興味もなく、不勉強ながら『下妻物語』の作者であるぐらいの認識で、書店でこの文庫本を見つけた際も購入を躊躇したほどである。
ところが一読すれば、小品集という題が示すとおりいささかインスタントな手触りは否めないながらも、既視感を味方につけた一興の怪奇小説集であった。とりわけ紹介文にあるところの“偏愛アイテム”がひとつずつ各短篇を彩り、見方によっては神経質なまでの掘り下げを基軸としているためか、モチーフ小説としてそれぞれに説得力のある体裁になっている。
のちのち枕詞にして説明するのも面倒なので、先に各篇とモチーフを列挙してしまおう。
『Sleeping Pill』:睡眠薬
『Somnolency』:(奇病の治療のための新薬としての)眠り薬
『Double Dare』:ゴシック・ファッション
『Pierce』:ピアッシング
『Pearl Parable』:真珠
『Religion』:悪魔崇拝
『Chocolate Cantata』:チョコレート
『Notsubo』:野壺
表題作
『Sleeping Pill』では錠剤の睡眠薬がキャラクターとして登場する。無論それは比喩だがまぎれもなくそれらの存在感が本編の中心を担っているのは間違いない。延べて7種も登場するために混乱と散漫はどうしたって免れないものの、さながら手広く集めた愛人たちのロンドを眺めるが如く、女性像の乱立を楽しむのが吉だろう。ちなみに登場する七人のファム・ファタールは以下のとおり。
女王 サイレース Silece
フルニトラゼパム flunitrazepam ベンゾジアゼピン系睡眠薬中間型 令嬢 マイスリー Myslee
酒石酸ゾルピデム zolpidem tartate 非ベンゾジアゼピン系睡眠薬超短時間型
少女 アモバン Amoban
ゾピクロン zopiclone 非ベンゾジアゼピン系睡眠薬超短時間型 女優 レンドルミン,-D Lendormin
ブロチゾラム brotizolam チエノジアゼピン系睡眠薬 娼婦 ベゲタミンA,B Vegetamin
クロルプロマジン・塩酸プロメタジン・フェノバルビタール配合 フェノチアジン系抗精神病薬 聖母 ヒルナミン Hirnamin
レボメプロマジン levomepromazine フェノチアジン系抗精神病薬 魔女 ハルシオン Halcion
トリアゾラム triazolam ベンゾジアゼピン系睡眠薬超短時間型(
http://home.catv-yokohama.ne.jp/zz/hime/okusuri_itirann.htmから引用)
話の本筋は“夢の女”モノのヴァリエーションであり、それに睡眠薬というガジェットが加わることで有体のオチが予測されてしまうものの、夢の光景を父親の存在に着地させることでひねりが生まれている。脈絡のない転生モノにすぎないという瑕疵はあるにせよ、バランスは善い。
断章めいた構成も睡眠薬によってもたらされた偽りの眠りを現しているかのようであるからして、造形美術ならぬ構成美術への気遣いがなされている証拠だろう。
『Somnolency』もまた、眠りに囚われた悲哀を描く。ここで用いられるのは嗜眠性脳炎。通称――眠り病という実在の病である。作風の先入観からか『眠れる森の美女』を語り直す謂わば“御伽話の晩年“を描く方向に進むのかと思えば、新薬開発を目論む医師を主役としたマッドサイエンティストものであった。舞台設定、“人外”なる表現など……冒頭から彷彿とさせるのはまさに中井英夫の“流薔園”周辺。
とはいえ、嗜眠性脳炎やトリパノソーマ症などの書き込みが作品の本筋というより前提に引っ込んでしまい、書割りの説明過多をすんでのところで避け――取引上の手続きという苦し紛れの意味合いを与されているのも苦笑を禁じ得ず、くだんの病に関する興味報告の域を脱していないのはもったいない。サロンの薫りとまではいかないが、癲狂院風の雰囲気を愉しもうにも流薔園園丁のフェティシズムにはとうてい追い付いておらず、味気のないショートショートになってしまった。
『Double Dare』では江戸川乱歩的な鏡の魔を引用しつつ、この作者だからこその多重人格モノのヴァリエーションが描かれる。それだけではオリジナリティもなにもないサイコスリラーになってしまうが、変異を引き起こすガジェットとしてゴスロリファッションが持ち出されることで、珍妙な説得力があるのが素晴らしい。
ボーイフレンドの登場と絡みに違和感を抱いたころにはすっかり足払いを受け、一気に謎と戦慄の坩堝に落とされる感覚は作中でも随一。ところが主人公の境遇についての逸話をダシにして、ラストに現れる実像の様は、成功とは言いがたい。
主人公の、その人に対する想いが如何様なものなのか、大事な大事なラストシーンにおいてあからさまに説得力が失われたように思えた。俗にいうどんでん返しのためのどんでん返しにしかならず、ダブルというモチーフも一挙に複雑化してしまって締りが悪い。
BAUHAUSとはゴシックの元祖ともいわれるイギリスのロックバンドであり、そもそも鏡像――ドッペルゲンガーというネタ自体、ドストエフスキー『分身』『二重人格』やポー『ウィリアム・ウィルソン』とさらに源流であるゴシック小説の大家とも相通じる関係がある。はいはい、もっとも鏡の中の自分が登場するホラー小説なんてのは現時代でも遍く在るようなものだが。
また、知らぬ者には読み方すらキョトンである
alice auaaは、日本生まれのファッションショップだそうだ。
美と醜悪、光と陰といった相反する二面性を、 黒という色を基調に退廃的でシュールなフィルターによって単にカテゴライズするのではなく全てに宿る生命の時間(滅びよりの創造)、不自由さに宿るエレガンスやエロスを永遠のテーマとしアヴァンギャルドでロマンティシズムなモードを発信する。
というブランドコンセプトらしく、二面性あるいは二元論はゴシック文化そのものが宿命的に背負っているものなのかもしれない。散りばめられたガジェットを含めてゴシックのためのゴシックによる作品ということか。
あとそうそう、あまり馴染みのない『Double Dare』ってタイトルは
こちらを参照。気が利いているでしょって言いたげなタイトルセンスも悪くはない。
てな感じで作品集の主題はもっぱら先行する怪奇小説を、作者にとっての“偏愛アイテム“を駆使しして語り直すことにあるのかと踏んでいれば
『Pierce』でアレ?と意表を突かれる。
ピアッシングにハマっている女の子とそのボーイフレンドの仲睦まじい会話……つまりはイチャイチャを描くばかりで、非現実的な要素を排除し、ものすごくミニマムでありながら体現するのはだからこそ手がつけられない愛の“醜さ”。
信仰めいた無条件の授け、とでも表せば『Religion』とも比較できようが元はといえば(作中でも半ば比喩的に、“神様から授けて貰った洗礼の印”と言い表されているが)ピアスはシャーマニズムの意味合いもあり、ファッションの見方だけではその魅力を語ることはできないのかもしれない。
それこそ金原ひとみ『蛇にピアス』ほどの極みを目指さなければ、抵抗感が薄く手軽に行えるものでもあり、人口に膾炙している文化――身近な人体改造であるピアッシングだからこそ、本作のような純真無垢と呼んでも差し支えない愛のかたちを描けるのだろうし、それはそのまま共感を得られやすいことにも繋がる。ところがそんなピアッシングによって“繋がり”や“実感”を得る物語ながら、やはり範囲は経験者・愛好家のみにとどまってしまうのではないか。
俺なんかはピアスをググってみてその種類の豊富さと用語の猛襲で一発ノックアウトした身なんだけれど、学生時代からそれ自体に抵抗はない。抵抗もなければ興味もない目なのだが、本作で描かれる高揚にどこか自虐的な衒いを感じるのは第三者の穿った見方だろうか。しかし当の本人たちにとっては、外部からの冷たい視線すら必需だともいえるのではないか。
異形コレクション《ラヴ・フリーク》の記事でも書いたが、そういう愛もあるのだ。とはいえ本作に限っては悪しざまに、集団におけるカップルの孤立という立場上のマゾヒズムだというだけでは言葉足らずだろう。
彼ら彼女らの嗜好そのものが対自己・対存在のマゾヒズムを孕んでいると考えれば、これほどまでに饒舌に、そして独善的に愛の凱歌を謳う物語として幕が閉じるのもむべなるかな。
自傷行為、人体改造は“醜さ”を受容することから始まる、謂わば対外部のマゾヒズムにより成立するのだろうから。
怪奇も幻想もなかった『Pierce』ですこし酔いが冷めてしまった御仁のお口直しにとばかりに、のっけから異国情緒(ただしタイトルどおり“Parable”=“寓話”テイストな)が醸しだされる
『Pearl Parable』。とどのつまりには奇想が開陳されるという結構で、実をいえば本書を購入するに至ったのは店頭でコレを立ち読みしたから。
クレオパトラのワインの逸話を語り出しながらも、よござんすなんて山の手言葉を小出しにしていくのには失笑を隠せぬものの、次第に全開になっていくトリビア(というかここまでくれば衒学趣味というよりもっぱら調査報告だが)を経て、はてさて如何様な落とし所が待っているかと期待は自然と高まるもの。結果、星新一、否、雰囲気からいえば城昌幸か阿刀田高かと言わんばかりの(イイ意味で)ショートショートの定石。
遠慮せざるを得なかった『Somnolency』、『Double Dare』の伏線回収と比べれば、語り口も含めてひときわ秀麗なオチ。
長さからいっても特別力の入っている
『Religion』。
では、いかなるアイテムへのフェティシズムがお披露目かと思えば、近代までの数々の名著を引き合いにラテン語に関する詳述から始まる。よもや言語なぞという深きも極まる世界へ踏み出していくのかとwktkしていれば、話題はイエス・キリストにずれていきそこから反キリストの話へと蟻地獄さながらの吸引力でたどり着く。
もはやサバト・黒ミサが触れられれば、そこから物語がどのような形でカタストロフィを迎えるのかは、想像の範疇。まったく宗教観のかけらすらない主人公が、ミイラ取りのミイラよろしくとある信仰にのめり込んでいく様はイタくもあり、切なくもある。
園子温『愛のむきだし』がどうしても思い起こされるのだが、エンタメとしての過激さは乏しいながら『パフューム』か『カリギュラ』か!と言わんばかりの乱交シーンもあり、エロ度ゲス度は満点。満悦も生唾嚥下もひとしおと呆けていれば、成敗された参加者と同じく頭をぶちのめされた感覚になる丘のシーン。切迫された果てに過剰なものへと変貌してしまった純愛の有り様は、『愛のむきだし』に勝るとも劣らないだろう。
終盤、急に心情を吐露し過ぎて余韻が失せるという欠点もあるものの、話としての重量、芯の太さは本書の髄を担う。
逆に問題作として挙げればつづく
『Chocolate Cantata』だろう。
冒頭の『Sleeping Pill』や『Double Dare』から繋がる文体と構成の魔術を用いていながら、こちらはもはや嗤いも出てこないブラックユーモアとバカバカしさ。
物語は単純明快で、チョコレート屋(なんじゃそりゃ)の父親と男手ひとつで育てられている愛娘の独白が交互に語られ、どうやら娘は父親特製のチョコレートにメロメロな様子。母音、濁音、破擦音がはひふへほやらりるれろで補われる――ざっくばらんにいえば舌っ足らずな語り口からして、ドーピング検査アウト!なんだけど、このままバレバレバレンタインなこのネタで引っ張るのかと思いきや、終盤さらりと娘が「おまえのやってることは全部まるっとお見通しだ!」(嘘)と告白すれば、父親もすべて承知の上と手のひらを明かしてみせる。
そこまで至れば着地なんてあったようなものでなく、へべれけ状態で不時着するのが江戸の華、否、ヤクの罠。これが文才の為せる技と言いくるめられれば至上の誉れだったろうが、正真正銘ホリックの為せる業だったというのは……、ヒース・レジャーばりに漢(オトコ)だね、とひあきたん。
末篇、単行本には収録されなかったことからボーナストラックという名目の
『Notsubo』。野壺とはいわゆる肥溜めのことで、肥溜めに落ちた幼少時代の思い出を皮切りに現代の怪異譚が紡がれるという極めてストレートな怪談噺。
誰もが思うであろう元凶を否定もせず、こりゃ何かあるだろうという詮索を嘲笑うかのごとくラスト一行でぽんとミステリ的なオチを投げ遣る手法は、韜晦というよりもはや喧嘩をふっかけられているようなもの。本書を貫いている“偏愛”というテーマも微塵もなく、あえて収録する必要性はないにも等しいのだが、ドス赤い偏屈な恋物語の数々で溜まったフラストレーションを一気に押し流す下剤の役割を果たしているのかもしれない。にしては詰まりの悪い結末ではあるけれども。
さて、本書を読みきってまず思ったのが(Twitter文学賞繋がりというのは失礼だが)我らが津原泰水に近いエッセンスが感じられるということだった。特に本書の場合は『綺譚集』や『11 eleven』という短篇集はおろか、連作集『蘆屋家の崩壊』にも近い感慨を覚えたのである。
それだけ各作品の構成に手配が行き届いているようだし、物語と予備知識の配合、文体へのこだわりと表現の巧みさ、淫靡且つ多様な世界観などが共通するのかもしれない。
なんにせよ怪奇幻想をこよなく愛し、文章そのものに淫することのできる輩なら取って損のない短篇集。個人的には食わず嫌いはよくないことの証明にもなったので、いい買い物だったろう。作者単体で“偏愛”するところまでには至っていないのだが(他に手を出さないのはそのため)。もっとも作品として完璧かというとそうでもないし、恋愛小説を所望の健全な読者にはオバケヤシキだし、お堅い怪奇小説フリークには作者の得意技に胸焼けがするだろう。それ以前にあまりにドストレートな話の筋に辟易するかもしれない。といった具合で、どちらのベクトルでも多大に人を選ぶ。
そんな意味で、劇薬なのかもしれない。少し糖衣がかった、古臭いにおいがするアンティーク……違うな、懐古趣味的(エセクラシック)な劇薬。
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