『聖母へ』
白砂がさらりさらりと天より落ちて、女は森の奥にひっそりと佇むちいさな教会でそれを眺める。
樹々の陰、床板の溝、薔薇と天使の玻璃窓のそこかしこから、逞しい腕が伸びてくるのを女は知らない。腕がその胸許から赤子を奪おうとも救い出そうとも女にはそれが見えない。
凍てるような朝が閉じ、茹だる午前の斜光が膝をつく女の頭に降り注いで、噎せかえるほどの熱気のなか、光の加減か額の垢か、女が常飲している錠剤の作用によるものなのか、あるいは、滅ぼせぬ罪の穢れか、沈黙をつづける女の額に浮かんだ雫は半ば濁っている。
神は、検した。
女の従前の人生と宿命と現在と、そして迎える運命の夜と。神らの意図などつゆも知らずに、腕の主らはあがいてもがき、小柄な女を取り囲む。
皆が、考えた。
女にこのものたちの在不在を報せるすべはいずこかと。ここに来た意味を、救済のことわりを悟らせる機会はいかがかと。
女は教会を去り、病院へと戻った。処方薬が尽きたからだった。耳にこびりついている産声の真贋を彼女は聞き分けることができない。精神を患い、肉体を衰わせた彼女は帰巣に着くように森を出た。
産後まもなく冷えた赤子は女の胸許を離れたのちに、太陽に灼かれて白砂の滝を泳いだ。
皆の手は結んで交差しぶつかり合って、教会内の静寂を病めさせる聖歌をうたった。
神と己の声、風琴伴奏、巡礼者の足音、魂をのせた飛虫のはばたき、皆には確かに聞こえた。女は教会の扉を抜けていく。
皆は悲嘆し、くず折れた。天井を震わした慟哭にさえ女は振り返らなかった。
しかし神は女に命を宿らせた。女が明るい森を歩き始めたとき、暗澹とした出口が覗けた。闇は熱を帯び、寄るとしつこいほどの暖色があふれだしてくるの だった。今にも転び出しそうなおぼつかぬ足取りながら、けれども力強く女は出口へと――さっき我が子を灼いた橙色の陽に果敢に挑んでいくように、外に開か れた入り口へと向かっていく。
女は祈りを忘れたはずもなくその手は絶えず腹に添えられていたし、神の声は届いていたのである。何も存ぜぬのは皆の方だった。
さて。
産み落とされてから二十余年、葬儀からは寸暇もなく。来る者と去った者に勇気を与えたこの教会も、彼女に伴ううち通い慣れた。
だからわたしは今日もここにこうして来て、白砂を眺めて思うのです。この祈りに貴女の祈りを返してたもう。
太陽に灼かれてしまった、おかあさん。
さて、ついにこのときが来たのかと。というのも投票に影響がなくなったので。まあ、結果一票しか入ってないんですが。
この作品の背景にあるのはとても1000文字は語り尽くせない人生そのものであり、
いえ、その一部にしか過ぎないのですが、とてもじゃありませんが『聖母へ』を通してそれを察しろというのも野暮なもんです。
本作を書いたのは7月11日だったかと思います。
実家の玄関先に腰をかけて、暑苦しい澱んだ空気に喉をからしながら。
いったいこの時期に何があったのか。もう少し遡りましょう。
6月30日。僕は挙式をしました。それについても二、三語りたいのはやまやまですがとりあえずいまは沈黙。
次の日、7月1日。成田空港へ行き、一泊。
2日の朝一で、インドネシアはバリ島へハネムーン。
楽しかった。風邪をこじらせていなければ。
そして二日目(7月3日の真夜中)。携帯電話に母親の携帯電話から着信。
次の日。
7月5日の夜、ホテルに兄貴から電話が入り、ヴィラ(一軒家風のホテル)の部屋ですべてを知りました。
僕は物心つく頃から母子家庭で育ち、今年になって実家を出るまでの24年間ずっと母と暮らしてきました。
母は今から十余年前に乳がんを患い、全身転移。
余命半年といわれてから十年、“奇跡の人”といわれながら治療を続けてきました。
車椅子生活になったのは今年の三月ごろからです。
半分寝たきりの状態でした。
ヘルパーを雇い、障害者年金を受け、僕が挙式を終え、生活が落ち着いたら一緒に暮らそうと約束していました。一緒に住んでいた兄と母はそりが合わなかったからです。
そして、挙式当日。
兄に連れられて来た母は痛み止めの薬のせいで、ぼんやりしている状態。顔には死相が浮かんでいました。分かりません。それを死相と呼ぶのか、分かりません。ただ今ではそうとしか思えないのです。
挙式は無事に終え、母はなけなしの声で嫁の腕を掴み、つぶやきました。
「強いお母さんになるんだよ」
嫁にとってはそれが最後の義母の声となりました。
挙式披露宴が終わると当人たちは着替え・二次会などで忙しくなり、気付けば日付が変わっていました。
安堵と、緊張とプレッシャーから来る体調不良、咳、鼻水、頭痛に苛まれ、福島を出る前に実家に顔を出そうと思っていましたが叶いませんでした。
成田空港に着いたのが、1日の夜8時過ぎ。
母から着信がありました。
なんのことない親子の会話でした。母の声は挙式当日のか細く今にも途切れそうな声を思わせぬ、明るく快活な優しい声です。兄から聞いたところ、7月1日~3日の3日間、それはもう目を瞠るほどの回復を見せたといいます。
携帯電話の充電がなく、話の腰を折る形で電話は途切れてしまいました。
披露宴中、半分眠っていた母に、DVDが出来上がったら持っていくと、一緒に観ようと約束したことだけは憶えています。
ホテルに着き、うかれていたのでしょう。連絡は返しませんでした。
次の日。人生初の飛行機でバリ島へ。
搭乗前に母にメールを送りましたが返信はありませんでした。
バリ島に着き、夕食。高台にあるお洒落なレストラン。夜空を飛ぶガルーダ航空の飛行機がすぐ近くに見える。BGMは生演奏のガムラン音楽。日本語が堪能なウェイター。辛口のメニュー。はじめて飲むビンタンビール。
夢にまで見た海外、夢にまで見たハネムーン。
ある意味では支えてくれた嫁へのプレゼントでもありました。
ディナー中も母にメールをしましたが、返信はありませんでした。
次の日の夜中。3時ごろに、着信が3件。
気にするなという方が無理です。
ただ何かあれば家の電話や、兄貴から連絡が入るはずだと考え、見逃しました。
もっともその着信すら母からではなかったのですが。
さらにその日の夜。ヴィラに戻ると、受付からメモをもらいました。兄貴の名前と実家の電話番号。
携帯電話でかけようとしましたが、慣れぬ海外、繋がらない。
間もなく部屋の電話が鳴りました。受付が取り次いでくれたのです。
二番目の兄貴からでした。
二番目の兄貴は「元気?」と普段するはずのない挨拶をする。
何かがあったのはすぐに分かりました。今でも鳥肌が立ちます。
「お母さん、亡くなった」
ここ数年、母の体調が悪くなるたびに最期のことを想像しました。
想像すればするほど、現実の質感を失っていたのかもしれない。
ハネムーン中という状況が、よりその錯覚を強めてしまったのかも。
僕は帰りませんでした。一週間、バリ島を満喫し、福島に帰ったのが7月8日。
帰宅して、棺のなかにいた母は、母ではありませんでした。
死亡した状況にも原因がありますが、なにせこのくそ暑い福島の夏。ドライアイスで囲まれようが腐敗は進み、顔は膨れます。分厚い死化粧のおかげで、母は面影でしかなくなっていました。
死に目にあえなかったことが大きな悲しみです。
9日に通夜。10日に告別式。慣れぬキリスト教会での葬儀でした。
結婚休暇と忌引休暇を連続取得という、前代未聞の事態。職場にも面倒をかけました。
告別式の後、火葬場へ。
母は生前冗談めかしてこんなことを言っていました。
「焼かれても骨なんか全然残らないかもしれない」
母の全身の骨に癌は転移していたのです。癌は燃えますから、燃やして残るのは癌に蝕まれた骨だけだと。
けれどそんな心配をよそに骨壷いっぱいになるほど、骨は残っていました。
真っ白い骨。多少すかすかに思えましたが、きちんと骨盤も大腿骨も、形を留めていました。
こうしていよいよ母は、いなくなりました。
他人に関する怒りを覚えたりもしましたが、ここでは飲み込みます。
他にも語らなければならないことはありますが、今日はこの辺にしておきましょう。
『聖母へ』に関連するのはだいたいこの辺りまでです。その他の事柄はその他の作品で、そしてそのときまた語りましょう。
『聖母へ』はそんな作品です。
評価を得るためのものではなく、誰かの記憶に留めるものではない。
最愛の母を亡くした、僕のための物語です。
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