手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『鴉の末裔』

[解題]
生者と死者の邂逅というものを描きたかった。それもどちらがどちらか曖昧な形で。
登場人物に限れば、ある程度の境界は引かれているものの、読者と語り部としたらどうだろうか。
また、『潮の匂い』にも通じるが、飛鳥部勝則氏の某短編にて論述された、“幽霊とは匂いである。”というファクターを採用している。

 一週間も風呂に入っていない臭い。腐肉の薫りだ。窓枠は青空、二つに区切る横一筋の電線に五羽の鴉が泊まっている。黒い体色に、深い黒の瞳と嘴が風を嗅ぎ分けているかのように、よく動く。後ろから名前を呼ばれた。祖父は愛用の湯呑みに茶を汲んで、真向かいに座った。髪からまだ湯が滴っている。弛んだ皮膚に盛り上がる肩甲骨から、馨しい湯気が立ち上っている。腐肉の薫りだ。

 湯加減に気を遣え。

 茶を啜りながら、酸味を得たような唇を尖らして、祖父は説教する。鴉は四羽に減っていた。一羽は翼を縺れさせてアスファルトに墜ちていた。感電したのかどうか分からない、時代後れの飾り帽を髣髴とさせた亡骸が、先ほどまで電線の上できちんと生きていたかどうかさえ定かではない。電線にいたのは実は元から四羽で随分前に逝った弟分の亡骸をいざ鳥葬しに参ったのだと言わんばかりに、兄貴分たちは地面と空とを窺っている。
 祖父が煙草に火をつける。銘柄はワカバ。既に人生を全うし終えた老木が、若葉の味を嗜むというのも奇妙な話だ。煙幕の如くに広がる白煙が、祖父の襞々めいた口許の皺を撫で、ついでに頬の柔毛を戦がす。三羽鴉が羽ばたいた。けれども、居場所を離れようとはしない。覗くとやはり、地上の亡骸は二つに増えている。

 すまんかった、上がってきちまって。死に際に鴉の行水たぁ、情けなかったなぁ。

 どうして風呂の火をつけたのか、その理由は聞いてこない。煙草が燃えきらぬうち、鴉は二羽に減った。じき一羽になるだろう。貧血を起こしたかのように宙に倒れこむ鴉と拍子を合わせて、祖父の上半身から肉が零れた。裂け目から腐肉の薫りがする。一週間湯に浸かった皮膚は襤褸襤褸で、息を吹きかけただけで穴が開きそうだ。
 風呂場で見つけたとき、湯船は既に冷水になっていた。時は十二月。七日放置すれば、常温より冷えるのは当然だ。祖父は崩れ落ちて、煙草はじゅっと音が聞こえるように霧散した。孤独な鴉が電線を離れ何処かに飛ぶ。風呂場を訪ねると、湯船に亡骸はあった。鍋で煮えた肉さながら赤黒く変色した祖父の身体。生き残った鴉が小窓の縁に着き、毛繕いをしている。
湯気と、薫り。
 介護疲れが祟って、家を出たのが七日前。寝たきりの祖父を清めようとしたのは自分だ。
 最後の鴉はくわぁと啼いて、飛び去る。屋上へ行こう。咎でできた比翼は縺れ、きっと私は墜ちるだろう。祖父と違う場所へ逝ければ、いい。
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