風が吹いた。
紅い鎧。白い雲。翠の龍に乗る一人の騎士。連なる山脈の陰から、《曇り鴉》の群れに追われながら、貴方は空を駆けてくる。
燃えるような紅蓮の兜に煌めく瑪瑙が天空から突刺す日光を反射させ、虹の帯を棚引かせる。追っ手に啄められながら、貴方は時計塔の窓を目指して向かってくる。取り囲む《曇り鴉》の群れは、此方から見るとまさに暗雲のように、漆黒と灰色とが綯い交ぜになった巨きな塊で、更にその表面には毛羽立った何かが蠢いている――そんな一体の魔獣に見えた。
その嘴は貴方の赤銅の鎧に歯が立たず、直ぐに攻撃を止めてしまうが、纏わりつくのを止めようとしない。貴方の跨がる翠の龍が、身を捩らせて宙で弧を、螺旋を描いて振り払おうとしても、《曇り鴉》の網からは抜け出せなかった。
風が止んだ。
翠の龍は騎士を乗せたまま、もつれながら地に墜ちていく。その先には蒼の泉。白亜の遺跡の中心で円を描いたその鏡面に貴方と龍は墜ちた。墜ちた瞬間の爆発音。飛び散る飛沫。架かる虹。鳴き喚きながら離散する《曇り鴉》の群れ。
風は止んでいる。中空を旋回しながら《曇り鴉》は、貴方の消えた泉の様子を伺っている。
その時、泉の水面に漣が立った。遺跡に一瞬の静寂。泉の周囲の草の葉が微かに揺れる。――そして、風が吹いた。
泉の底から天空に屹立するように伸びる翠の竜巻。周囲の風は吸収され、水面の渦から、風に乗った貴方が空を駆け昇る。天から差した日の光が貴方の右腕に燐光をまぶした。その手に握られた剣の切っ先。
翠の風に包まれた銀の剣のその一振りは、空気を割り、猛然と向かってくる黒灰色の塊を微塵に切裂いた。閃光から落ちる一枚の昏い羽根が、泉の水面にぴたりと止まり、漂いながら水底に吸い込まれていく。再び、静寂。
時計塔の窓で十字架に縛られた私の目の前に、貴方が現れる。紅い鎧、翠の龍、背景には白い雲と青い空。
「帰ろう」
私を繋ぐ鎖を外し、貴方は手を差し伸べる。その手を握り締め、私は空に発つ。貴方の腰に掴まりながら、翠の龍の背に乗り、晴れた空を駆け出したあの日、王国を去っていく私を包んだ、軟らかな春風。
初夏の午後、レースのカーテンから射し込む洩れ日が気になって、テラスの窓を開けた時、不意に貴方を思い出した。窓の外、虹色の花々が咲き誇る《百年庭園》の生け垣の向こうから、かつて私を迎えに来てくれた貴方のような、
暖かな風が吹いたからだ。
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