手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『鏡の中のジキルとハイド』

[解題]
人格の反射にしては少し分かり易すぎたかもしれない。向かい合わせの鏡の欠点かつ特色は、結界のなかで存在や話題が帰結してしまうことだろう。
 二枚の鏡に映りし、二人の男。名をジキルとハイドと云う。
 ジキルは他人の幸福を自分の幸福と思いつつ生活している、何とも温厚な男である。駅の改札を抜けようとしたときに、突然隣から大学生風の男が割り込んできたことがあった。ジキルは男の背負っていたリュックサックに押され、バランスを崩しそうになったが、きっと急いでいるのだろうと彼に順番を譲ってあげた。また、繁華街を歩いていたとき、後ろから子どもがぶつかってきたこともある。転倒し泣き出した子どもを抱えながら、年頃三十そこそこと思しき母親が、何処見て歩いているのだと食って掛かってきた。子どもの手から落ちたソフトクリームがズボンの裾にべっとりとついていたのだが、足元を気にしながら歩かなければとジキルは肯いた。
 一方、ハイドは残虐極まりない男である。週末の深夜、自宅近くのコンビニで、地べたに座り込み談笑している女子高生二人組みがいた。片方の女が偶々通りかかったハイドを、特別な理由も無く嘲ったことに気がつくと、彼女の首の根を掴み自宅まで引きずっていった。追いかけてきたもう片方の女の脇腹にジャブを食らわすと、そのまま自室に閉じ込め、その後は想像できるだろう。男を監禁する場合もある。虐め、嬲り尽くした挙句、浴槽に連れ込むと、アルコールで混濁した彼氏彼女の足の皮を剥ぎ、湧出した血で、沐浴させる。過去の同居者が残した臓物の海に漬け込み、すっかり肉が弛緩した男女の身体を細切れにすると、それを別の同居者に食わせる。そいつが漏らした糞尿でさえ、浴槽に継ぎ足し、此の世のものならぬ異臭の巣窟と化した部屋で、ハイドは生活している。
 ジキルとハイドは正反対とも呼べぬほど、別世界の人間である。右の鏡にジキルの温和な笑み。左の鏡にハイドの冷酷な笑み。彼らを交錯させたら如何なることが起きるだろう。別世界を重ね合わせれば、また異なる世界が生まれるかもしれない。
 例えば両者が映った二枚の鏡を向かい合わせてみよう。ジキルがハイドと重なり、重なったものが再び重なる。永遠の、合わせ鏡の煉獄にジキルとハイドは閉じ込められ、両者の笑みが複雑怪奇に融け込むと、果たしてそこに何が映る?

 ジキルとハイドは打消しあって、鏡だけが残された。
 女の悲鳴、血と愛液の薫り。男の呻吟、臓物と糞尿の薫り、骨肉の玩具。阿鼻叫喚に満ちた暗室の地獄絵を背景とし、二枚の鏡には表情の失せたわたしがいる。
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