「これはなんのゲームなの」
犬小屋だとしても汚らしいことこのうえなき、誰も知らない河辺の、プレハブのなかだった。手首に錠をはめ、帰宅途中のままの姿で女は横たわっていた。開襟シャツが赤く濡れていた。彼女の血ではなかった。昨夜までそこにいた先客のものだろう。
「こんなことするなんて。あなたはもっと臆病なひとだと思ってた」
どう思われようが知ったことじゃなかった。誰しも表には出さない素顔がある。何を隠そう彼女だって、普段は見せたことのないきつい目をしているじゃないか。公にできないのが辛い。ほんとうは秘匿はあんまり好きじゃないんだ。
「襲うつもりはないんだ。乱暴したい気持ちがないっていうと嘘になるけど、食事の前にはいただきますっていうだろう。同じさ。御祈りが必要なんだ」
パイプ椅子に押しつけられてすっかり凝ってしまった腰をあげる。彼女は、ふいに足を投げ出されていた足をたたむ。一挙手一投足が癇に障るな。指一本触れるつもりはないのに。彼女たちは誰もその言葉を信じてはくれないのだ。いつだってそう。
床で吐瀉物といっしょくたになっていた青表紙の本を拾う。ページとページがひっついていたが、何度開いたことかわからぬ乙女座の項は艶っぽく自然と開いて、責任感があるだの、分析能力に長けているだの、メランコリィ気質だのとそれっぽく並んだ活字をぎらぎらさせる。
「それ、見たことあるわ。星占いの本でしょ。それが、なんなの。御祈りだっていうの?」
ヒビの入った赤い弦の眼鏡ごし、彼女の瞳は仕事中の、琥珀細工のような芯のある輝きを取り戻している。思わず、投げていた。単行本は彼女の蟀谷に軽々と突っ込んで、赤い弦がぱきんと乾いた音を立てた。壁に頭を打ちつけた彼女は、御祈りの姿勢にしては投げやりこのうえなき、脳天を引きずるようにうなだれ、放った本はページがめくれ、開かれたのは獅子座の項。
「きみは、知らなくて、いい」
その人は、銀河をまとった。
このプレハブの、その場所で、手を振った。いつかまた会う時はあなたが星座になるとき。そんな別れの言葉を残して、どんな映像技術を……いや、催眠術を使ったのか、プレハブのなかを溶々たる宇宙に変えた。指先には光の葡萄、それとも天井から拾った星屑だろうか。一粒口に含んではにかむ。これからわたしはばらばらになるけど安心して、指でなぞれば、シルエットぐらいなら見つけること、できるから。どうか、見つけてくださいませ……。
下腹部で発したのち次第に強まっていく光に抹消されて、彼女はとうとういなくなった。あとには満天の星空を描きだしたプレハブの天井があり、確かにそこに彼女の星座があったのだと思う。だからきみは神話も意味も象徴も、内在する性格の傾向さえも、知らなくていいんだ。星座そのものであってくれれば、僕のうしろを追いかけてきてくれさえすれば。
知ってるよきみ、経験ないんだってね。ほら、いまじゃそういう人めずらしいから。顔はきれいなのに、ふしぎだ。仮初の姿は似合わないのさ。きみこそが彼女なんだろ、またその細い身体のなかに仕込んだ宇宙を、さらけ出してほしい。それから追いかけっこしようよ。びくびくしないで。これは麦の穂さ。
「あなたは畝に生えた何千何万の麦の穂のひとつ、選んで収穫したのが、わたし」
とか言ったのはきみの方だ。乙女座のきみ、あの時みたく夜空に四肢をばらける、きみに、麦の穂のとがった先端を近づける、僕は騎士、嚮導、天文学者。手元を見てご覧、それが僕だ。
ほんと好き勝手に書かれているもんだ。
派手好き、身勝手、理想主義者……けれどまあ、不本意だけど当たってるかも、ね……。
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