霜月二三日
ことばとは、影にすぎない。ことばには、対象となるものの存在を確証たらしめる力がない。いくら億千のことばを書き連ねようと、実在しないものは実在しない。
薔薇に集る瓦解虫のスケッチ
孤高という言葉を光にしたらこんな感じだろう。青みがかった岩石の浮遊物。風舞う赤いパラソル。抱く、絹糸のよな瓦斯雲。螺旋を描く茨の蔦にしがみつく黄色い瓣。翠色の茎には虹彩光沢を帯びた少女の八重歯大の甲虫が集まる。一匹上昇気流に乗り、群衆を離れてしまえば、忽ちパズル状に組み合わされた岩石は崩壊する。コンクリと硝子窓の海に綺羅の雪ふり積もる。
霜月二一日
汗のしみた喪服を引きずりながら棺を見送り、海の家のバルコニーにでもありそうな白い腰かけに落ち着く。告別式のあいだ結局読み返すことのできなかった最後の手紙を、内ポケットから取り出してしばし硬直した。顔を上げたら、視界の中心に虫が集っていた。
一行小説と解説
机上浚溜消屑神窓放投貴方生。珈琲混溶粉々星一妾恋夜泣暮。
(漢語めいた字面だが単純に送り仮名の削除。散文をさらに圧縮した形に、より刹那的な印象をみる。作者は**市在住の当時二十歳女性。連絡先不明につき情報求ム。)
霜月一〇日
彼女のノート見つかる。察するに三年前、激動の年。例の天災から半年後のものと思われる。「太陽はまぶしく、黒点のように虫の群れ現る。きっと目をそらしたら消えてしまうに違いない。太陽のことばを影として映し出す、そんな奇妙な生物たちのことを妾は逆光虫と名付けたい。浮遊し、漂浪する妾のことばも、彼らとともに生きていけたらいいのに」。
全反射
ことばとは、影にすぎない。私はいつかの日記にそう記したことがある。
背にした太陽からの放射光によって生まれたその影は、対岸から光を当てれば消失するきりないのだ。存在しないものをことばにしたとて、それそのものが生まれるわけではないが、ことばに封じ込められたなにかは存在する。さらに別の光を当てれば、そのなにかは生まれおちたままの姿を放棄してしまう。私はかの愛人が名付けた逆光虫という名の虫を一匹残らず消失させてしまうつもりなのである。読者諸氏の胸中から、一刻も早く私たちの共有物を失ってもらいたいがために。だから諸氏が思い描く虫は擬い物である。逆光虫はほんとうの意味で影になる。私の胸中以外では実在しない。彼らには、ずっと私の胸だけ蝕みつづけて欲しいのだ。
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