腐葉は底に沈み、澄んだ浅瀬が昼を謳歌している。光を含んだ水面のそばを小魚たちが行き来し、渓流のエネルギーを運んでいる。両手を草叢に囲まれ、蛇行することなく真っ直ぐどこまでも続くであろう渓流の真ん中に立ち、脹脛に夏解の清流の冷たさを感じていると、足場の悪い道を克服したばかりの両足の緊張が、疲労で一層漲ってくる。
渓流の先に薄い雲がかかった太陽が居据わり、その朧気な日輪から僅かに目を落とせば、強固な岩場に囲まれて出来た窪地に、この森の奥地、喪われぬ楽園の主が鎮座していた。水面の揺らぎを通しても、それは鮮やかな虹の耀きを発していて、思わずここから先は踏み込んではならぬ聖域なのだと、魚鱗そのものが警告しているに違いない。
大いに見せつけられた眩耀と神秘は、まさしく主の気迫と貫禄なのだ。
幼い頃通った近所の県立公園には、テニスコートほどの大きさの溜池があって、夥しいほどの黒々とした烏鯉、紅白五色オレンジ黄金様々な錦鯉が泳いでいた。その中の一尾、世にも稀な七色の虹鯉がいることを知ったのは、昨年逝ってしまった友人のお陰だった。小学五年の夏休みだったろう、誰より先にと網を担いで赴いた頃には、虹鯉は居なくなっていた。公園の管理人に見つかり、理由を話すとそんな鯉は知らないという。第一、居たとしても勝手に網で捕ろうとするのは何事だと叱られた。全くそのとおりだ。
虹鯉の存在は管理人の他に漏れることはなかった。月日が経ち、交流が少なくなると話にも出なくなり、てっきり忘れたのかと思えば、逝く二月前の見舞いの際、友人は窓に映る虹を眺めながら、忘れるもんかと呟いたのだった。
ダム建設に関わり堰き止められる支流の調査をする上で、この渓流に虹鯉がいることを知った。流水を掻き分け玉座に歩み寄ると、幼少時代の幻だった七色の鯉が確かにそこにいた。平地の池沼にしか棲まぬ鯉が、標高の壁を抜け、こんな上流にまで来るのは信じ難い。とは言えそれは虹鱒ではなく明らかに鯉なのだ。日を遮る水草の陰に覗けた虹色の体色は、所々削られ傷痍が目立つ。しかし眩さを欠いた訳ではない。神々しさを保つ満身創痍の魚体に、私のエネルギーは一瞬で奪われてしまった。
からのクーラーボックスを担いで渓流を離れた。空には龍に似た飛行機雲が、太陽に届かぬ虹を貫くように伸びている。友の遺言はいつかあの雲のように、天へと昇っていくのだろう。
友人の許へ。
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