自炊も二年やり抜けばそれなりの腕前にはなる。活きのいいイワシを選ぶ目だって養える。まな板に横たえて頭をぶった切る。子供の頃はオヤジの食いもんだって敬遠していたが、味覚も変わっていくものだ。無性につみれ汁が食べたくなった。
「痛ッ」
とがった胸ビレが指と爪のすき間に刺さった。指先をつぶすと赤い血の玉が浮き出てきた。傷まぬうちに下処理だけは済ませておこうと、再びイワシを掴んだ。すると、指が触れた箇所がじゅくじゅくと音を立てて崩れた。もう一度、血をウロコに垂らしてみる。陽光を浴びた吸血鬼のように粉塵と化してしまった。
自ら舐めてみても舌先が痺れるわけでもなく、鉄分臭い血の味にすぎない。こりもせず窓辺によく来るブチのノラ猫に舐めさせてやると、泡を吹いたかと思えば火薬でも呷ったかのように破裂して、ひらひらと宙を舞う毛玉だけが残った。
ものの試しは続いた。イワシを買ったスーパーに戻り、販売員の目を盗み手当たり次第の試食品に血をつける。何も変わらなかった。唐揚げは唐揚げ、ステーキの切り身はステーキのままだ。五十手前の中年女性がステーキを頬張った。ほかの試食コーナーでも悲鳴。二十分で、スーパーは狂騒の舞台と化した。
あとは報道のとおりだ。あまりに変質的な凶器をもってしまったがために、理性を失っていたようだ。こうも容易く殺戮に手を染めてしまったことの言い訳ではない。よくよく考えれば凶器は血だ。場所が近所界隈と来れば、鑑識にどうぞ見つけてくださいと言わんばかりの失態だった。俺は指名手配になった。
今日で二ヶ月。人の多い都会で我ながらよく生き延びたと思う。しかしろくに飲まず食わずで、足はふらつき、頭が重く、少し休めばからの嗚咽がやまない。妙案を思いついたのは行き着いた港で防波堤を眺めていたときだ。もうこうなりゃやけだと、這いつくばって埠頭を目指した。
コンクリートに手首を打ちつける。血は海を死滅させるだろう。この世は一巻の終わりだ、ざまあみろ。しかし血は一滴も流れやしなかった。
「うそだろ」
貿易船の汽笛とパトカーのサイレンが重なって聴こえる。俺は枯れ木のような腕を抱きながら、今さらに気が遠くなっていくのを感じた。血が涸れてもなお生きている自身の不可思議はさておき、舌先に蘇るつみれの味を思い出しながら、埠頭の空を見上げた。
黄昏れた空はこの世の終わりかと思えるほどに、深紅に燃えたっていた。
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