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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『少年ピラニア』

[解題]
これも長いこと温存していたタイトル。津原泰水『少年トレチア』のパロディだったが、結果的に無関係な着地をした。ピラニア像を前面に推し出しながら、酪農家の娘にバイトを置いた点などその場限りの冒険心が功を奏した例であろう。
いま読み返してふと気がついたのは、叙述法に皆川博子「バック・ミラー」の影響がにじみ出ていることだ。(そういえば直前はじめて読んだのだった)いわゆる青春の死のイメージが形を変えて、小学生時代へと溯りそこから中庭の瓢箪池というモチーフが現れた。今敏『妄想代理人』の少年バットを引くことこそ躊躇われるが、魔少年はいつでも幼稚な悪意から生まれ出る。
執筆当時に報道されたイジメに関するニュースが、彼を招いたのだ。



 コの字型の校舎の真ん中に、水藻で底の見えない池がある。上履きが藻を食べていた。わたしの上履き、ママに縫いつけてもらった華柄のワッペンが、藻を食べている。もう片方はチャボのいる小屋のなかで糞尿まみれになっていた。
 夕映えが三階の硝子窓で屈折して、犬走りを照らしていた。池に浮かんだ上履きは手が届きそうもなかった。ホウキで突ついてもくるりと反転するだけで、叩いてもしぶきをあげるだけで、たぐり寄せることはできない。
 何度かバシャバシャしているうちに、藻のすきまから白い目がじろりと睨んできた気がした。目をさました、とすぐに分かった。少年ピラニアを起こしてはいけない。なんでも食べるのだ。けれど、わたしの上履きは食べない。臭いから。
 同級生がいう。酪農家の子だから、牛糞を踏んで暮らしてるって。まさか。わたしの顔を見ると牛乳が臭く感じるって、酪農家だから牛乳飲めって、机に積まれるパックの山。
 ランドセルをそばにおき、息を殺して上履きをまた突いた。白い目が、水面を探っている。目が合えば飛びかかってくる。ぎざぎざの歯のおとこのこ、人を食べるこの学校の悪魔。上履きが手前に動いた。届くかも、と腕を差し伸ばした矢先、水際の苔で爪先が滑りバランスを崩した。落ちる、そう思った瞬間、誰かが二の腕を掴んでくれて落ちずに済んだ。
 同じクラスのヨリコが、「何してんのさ」
 わたしはぜんぶ話した。上履きのこと、誰の仕業か、この池に棲む少年ピラニアのこと。
「タッちゃんちに行こうよ」
 隣のクラスの男子でヨリコと仲がいい。付き合ってるってみんないってる。わたしはヨリコに腕をつかまれて連れて行かれた。タッちゃんの家は学校からそう遠くない住宅地にあった。家の人は出かけているのか、玄関から顔を出したのはタッちゃん。「わぁ、いらっしゃい」わたしはヨリコたちと二階にあがる。
 池のほとりでわたしはいったのだ。「どうしてこんなことするのヨリちゃん」
 するとヨリコは、「遊びだよ、遊び」。わたしの上履きを池に沈めることが遊びだというの。タッちゃんが部屋の扉を開ける。「牛女が遊びに来たぜ」
 部屋の中にいたのは、見覚えのある四、五人の男子。わたしを室内に引きずり込んだ同級生の手で、服は脱がされる。抵抗するわたしをヨリコがケータイで撮っている。わたしはその背後に、水藻の森を思い出してる。そうだ、ここは池のなかだ。みんな少年ピラニアだ。





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