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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『魔囚壹景』

[解題]
bk1怪談大賞に投稿したものはこれを800字にブラッシュアップしたものである。どちらがいいかはどちらでもいい。ここで、bk1で貰った感想を引用することにする。
この作品を読んで、少し前に純文学の世界で、一大旋風を巻き起こした若合春侑女史を想起したのは、私だけではあるまい。
この手の作品は、擬古文という一言でくくられがちではあるが、描き出す時代に合わせて文体表記を換えるという若合女史の技法を逆手に取り、時空のゆがんだ 二つの映像を左右の目に同時に見せることで悪夢の3D映像を読み手の脳内に結ばせる。廃墟に流れた長い時間と、そこに取り残された二つの記憶。我々が見て いるのはきっと、遠い未来ではなく遥かな過去。読み手もまた、いなくなってしまった人々の記憶でしかない。
何とも大仰な感想で、ああなるほどなあと作者自ら気付く部分もある。テーマは《吊るされた男》ということで、角川タロットボックスへのオマージュとしてある。1000文字小説としては比較的初期の作品ながら、方向性は変わっていないようだ。


 男ハ植物ノ悲鳴ヲ聞イタ亊ガ有ル。
 古都ノ春ノ宵、四辻通ノ塞(ふさがり)ニ在ル古刹ノ境内デ、欝蒼トシタ茂ミノ隧道ガ伸ビタ先ニ、枯死タ櫻ガ壹本、苔蒸シテ植ワツテヰタ。其周圍ニハ廃レタ卒塔婆ト火ノ消エタ燈籠ノ群。
 其足許ニ艸ノ頭ガ突キ出テヰテ、櫻ノ風貌モ相俟リ、生々シイ蠱惑ナ緑ノ觸騒(さざ)メキガ聞コエタ。艸ハ風ニ撫デラレル亊モ無ク、勝手ニ震エテヰル。
 森閑トシタ此處ニ昨晩ノ葵祭ノ風情ハ無イ。昨晝、知リ合ツタ賤ノ女ヲ此處デ誘ナイ、悦樂ト慾情ノ果テニ气狂イノ贄トシタ亊ヲ今ハ後悔シテヰル。
 葉蔭カラ覗ク月ハ朧。男ハ中形ヲ脱ギ腕ニ巻キ、艸ノ頭ヲムンズト掴ム。根元カラ笑笑(わらわら)ト小蟲ガ這イ出シテ來ル。男ノ右腕ニ纏ワリツキ、尖ツタ手脚ト牙デ肌ヲ突刺ス。怖气ヲ立タセテ男ハ怯ンダガ、勢イニ任セテ壹気ニ艸ノ頭ヲ引拔イタ。
 土中カラ現レタ顏ハ小鬼ノ顏。耳ヲ劈ク聲ガ常夜ノ靜寂ヲ切裂イタ。禽獸ガ逃ゲル。曼陀羅茣蘿(マンドラゴラ)。咎人(とがにん)ノ精蟲カラ生レシ妖カシ。其悲鳴ヲ聞イタ者ハ忽チ死ス。
 枝埀レタ櫻ノ枝カラ、蜘蛛ノ糸。男ヲ搦メ、ブラリゝト宙デ揺ラシテハ、男ハ白眼ニナリ、黒イ豆粒ノ樣ナ瞳ガ、霞ンデ消エタ。

 甞(かつ)ては理想郷とも謳はれた、亞細亞の中核都市の既に機能して居なひ摩天樓街の、壹角に廣がる灰泥(ヘドロ)色の昏き壹叢(ひとむら)の森に、入つて間も無く其の奧に現われる、食蟲花の蔦に圍まれた大きな門を潜り、露の滲みた落葉の屍骸が敷き詰まつた泥濘(ぬかる)んだ舊道を拔けて、漸く辿り着ける皓(しろ)く繊細な小廣ひ砂地の上に、聳え立つた廃墟の中の、壹面、呪詛の刻み込まれた何も無ひ空間の端つこで、天井と床、其々(それぞれ)から伸びる朱色の太ひ繩で手頚と足頚、胴周りを縛られ、幾重にも頚に茨の鞭と件の紐を括り付けられ、天井から眞直ぐぶら下げられた、灰色に燻んだ肌の色をした裸體で盲目の男が、蜘蛛の巣に捕はれた蠶(かいこ)の樣に中空に浮いて居る。
 其足元には濁る水溜りが湯气を放つて居る。時を經(へ)、孰(いず)れ其處から神芽が悲鳴を上げる頃、笑みを讃へて息を絶つ。其迄の間、永い時の屍を踏み、男は獨り其處に居續ける。
 黒點(こくてん)の瞳、舌の拔かれた無殘な脣(くちびる)は、遠き異國の凱旋歌を口遊みながら、軅(やが)て迷ひ込んで來るであろう貴方を待つて居る。
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