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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『波濤の娘』

[解題]
小説と並行して詩作にも興じることになったが、そこから派生した文学でもホラーとしてでもなく、拡大解釈してみたところの吉川楡井作品の集大成としてこれがある。それだけ力量をもって描いたし、思うところもあるのだが、今にして思えば随分とチープな作品だ。
タイトルはもちろん平沢進『白虎野の娘』を真似たものであり、流れる血液は無様にも楽曲とおなじ成分、おなじ濃度を目指そうとして誤って少し精液を混じらせてしまった具合だ。けれどそれはそれで可愛い娘になった気もする。




 あの娘は波濤の娘だ。人を二千人、食った。
 娘が去った後には、花が残った。蛆虫の食う花だ。あの肋骨の柵で支えられた、干からびた肉の。いまでは希少価値の高い紅色の花弁を人々は持て囃し、いずれは撤去費用も嵩むであろう、大型の記念碑を建てた。麓に捨てられた赤子がいた。透明な硝子箱のなかに入れられ無菌状態を保持されながら、超意識投影のための高周波教育を受ける。
 記念碑には去り行くあの日の日付と時刻、娘が浚った人々の数が刻印された。

 赤子は成長し、痩躯の男子に育った。髪は赤毛で、瞳は夜を湛えた黒。巨鴉が伸ばす双翼の如く、はっきりとした眉毛が瞳を抱えた。周囲は身寄りなく生まれた彼に、是が非とも素晴らしい名前をと画策して何度も筆を振るった。高々二、三文字に込められた人々の思いは強烈で、改めて考えればなんてこともない文字も、彼の名前に授けられた途端に墨色の綾が失せた。彼が拒絶の仕草を見せるたび文字群が嬉々とするようでもあった。
 終ぞ彼は名前を持たなかった。
 勇敢なあの子と呼ばれるようになった。

 彼のランドセルには花が咲いた。血みどろの鮮花が植わった黒の合成革は、かの出来事を思い出させる。光が反射し艶かしい油膜の変化を見せる花弁の陰から、苔むした腕が伸びる。蔦でも根でもない、腕だ。彼の首に腕が巻かれ、クラスメイトは瞳を輝かせた。皆が、萎びた暁光めいた瞳だ。
 好奇な眼差しは一年ともたなかった。飽きたのとは違う。皆、外側に行ってしまったのだ。何故かと問うことに意味はなかった。避難もできぬ彼の漆黒の瞳は大海嘯に向けられていた。
 彼がはじめて客観的に宿命を認識できたのは、首筋に痛みが走ったからだ。彼は生まれ落ちた記念碑を訪れる。枯れた花々が横たわる大地のその下に、幾重にも折り重なる紅の層を見つける。歪み、潰された女の顔と頭蓋があり駈寄る。
 尾けてきた引率の教師が、彼を捕まえた。家に帰ろう、の一点張りだった。
 僕の家は此処です、そんな奇麗事を吐く余裕もなかった。

 教師の肋骨は未熟で、彼の重い魂を支えるには不十分だった。耐え切れず瓦解するその上に立ち、彼は泣いた。耳を劈く芝居がかった慟哭を責める者はいない。代わりに荒れ野は非常警報に包まれ、再び町から人が消えた。

 彼岸から来る少女の首筋に、彼は爪を立てた。
 数百の花弁を散らせ少女は泣いた。笑った。
 血と泥の雑じった花は、恋の色だと云って、笑った。
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